2. 中近東・アフリカ編 – Oriente Médio e África

シリアーヨルダンーイスラエルーエジプトースーダン

エチオピアーケニアータンザニアーザンビアージンバブエ

南アフリカーレソト

シリアは物価が安く、5時間バスで移動しても300円程度。シュワルマ(ケバブ)は60円くらいでしたが、ガラス片が入っていたときは最悪だった。
道を歩くと、すれ違う全員が挨拶するし、チャイに誘ってくれたりする。友好的で、なにか困ったことがあるとみんなで助けてくれる。日本人が思っている“中東”の危険なイメージとは全く違う。
シリアの首都ダマスカスからバスで5時間、ヨルダンの首都、アンマンに到着。
死海に行った。死海は海抜-396m。塩分濃度は海水の4倍で、生物が棲むことができない湖だ。水の色は普通だが重たく感じる。そして体が本当に浮く。すごい。塩水が目や口に入ると大変なことになる。湖岸にある温泉で塩を落とした。

アンマンで情報を集め、念願だったイスラエルのエルサレムに行った。イスラエル出入国スタンプがあると、入国拒否される国がある。国境ではパスポートにスタンプしないように頼んで入国した。
エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地があり、なにか不思議な街だった。パレスチナ自治地区を通り、現地の人と話す機会があった。彼らの意見にいろいろ考えさせられる。政治的発言は避けた。

ヨルダンに戻って、ぺトラ遺跡を見に行った。“インディージョーンズ最後の聖戦”の舞台になった遺跡で、入場料が3000円以上。払いたくなかったの で、地元のベドウィン(遊牧民)に裏道を教えてもらい、山を越えて遺跡の裏から入った。岩の崖に直接掘り込んで造られた神殿は、スケールが大きく、圧倒さ れた。夕陽が砂漠と岩山と遺跡を赤く染めて、陽が沈むまで眺めた。

アカバから船で紅海を渡る。20カ国目、エジプトに来た。カイロまでの道中、外は例外なく砂漠で、冷房が効かないバスの車内は危険だった。
カイロに着いて、翌日、オアシスと砂漠のツアーに参加した。水晶でできた丘や、石灰岩の白砂漠は絶景だ。太陽が地平線に沈み、すごい数の星と流星が見えた。想像を絶する。
カイロに戻り、現在は日本人宿に滞在していた。偽造学生証を作って、考古学博物館を学生料金で見学し、ピラミッドも見た。スーダンビザ、エチオピアビザを入手し、南下する準備を整えた。アフリカを縦断する。
10月13日、ラマダン中のカイロを出発した。ルクソール、アスワンの遺跡群に行った。遺跡は観光客が多く、昼間は焼けるように暑いので、朝や夕方に見 学した。役人も要求してくるバクシーシ(持てる者が施す富)を断固として除け、スーク(市場)では、当然のように5倍10倍で売ってくる品物を値切る。観 光地故なのか、腐敗しきったアラブ人の相手は大変だ。
その後、ナセル湖のアスワンダム港から、21カ国目、スーダンに向けて出港。船内は、まるで難民の密航船の如し。乗客と荷物でいっぱいで、とりあえず横になれただけでもラッキーだった。

スーダン入国後、ワディハルハから2昼夜かけて首都カルツームへ。
この時期、スーダン人の出稼ぎ帰省ラッシュらしく、バスは通路も荷物を満載。外は40℃を超える砂漠、未舗装のルートと整備不良のバスは、今までで一番過酷な移動だった。7月や8月でなくて良かったと思う。
さらにはラマダンだったため、日中は食べられない。店は閉まっているか、開いていても品薄状態。加えてスーダンは慢性的な水不足。最終的に、水瓶の茶色く濁った水も飲んだ。ナイル川の水だか、雨水か。あの時は、常に脱水症状気味だったと思う。
カルツームからエチオピアに向かう途中、ゲダレフで腹痛があった。早朝、泊まっていた宿から病院に運ばれた。病院というよりは診療所で、設備はなく、虫 の死骸、使用済みの医療器具、薬品が床に散らかり、ドアがない室内は埃っぽく、もう半泣だった。医師の診察もいい加減。なぜか栄養剤の点滴を打ち、2時間 後、なぜか痛みは完全におさまった。医師の診断は、“マラリア熱”。発熱はなかった。おかしいと思いながらも、“マラリア”はショックだった。しばらく様 子をみたが、後は何ともなかったので、翌日に移動を再開。医師の誤診。安心した。点滴針など、未使用だったのか、気になる。いろいろあって、結局治療費は 踏み倒した。
しかし、スーダン人は人が親切で、日没後、スーク街や民家の前を通ると迎えられ、ご馳走してくれた。敬虔なムスリムが多いようで、ブラックアフリカンに違和感があった。
ゲダレフからエチオピア国境までは、トラックの荷台で、景色は素晴らしいものだったが、これも大変。暑い。土埃で全身赤くなった。

気が付くとビザが残り10日間。エチオピアは急いで移動した。バハルダールを経由して首都のアディスアベバへ。標高が2000m以上の高原で、涼しく、意外と緑が多くて驚いた。広大な草原、青ナイルの深い峡谷、スケールが大きい景色が続く。
電気はなく、木と草と泥でできた円錐形の家。その小さな集落が点々とし、人々は牛や山羊を放牧し、畑を耕し、ロバが荷車を牽き、川で食器や衣類や体を洗 うような生活だ。少数民族もたくさんいる。歩くと物乞いが集まってきて、無視しても後ろから付いてくる。特に子供が面倒だ。バスの中で、老人から話を聞 き、悲惨な現状を知った。
日本のODAで作られた舗装道路がある。感動した。日本の道路建設の技術水準は世界一だと思う。
首都アジスアベバは、近代的なビルが建ち、マーケットには物がたくさんある。しかし、ダウンタウンは汚くて貧しく、貧富の差が目立つ。
エチオピアの国民食“インジェラ”は、慣れると病みつきだ。コーヒーも美味い。イスラム圏から脱出し、ラマダンからも解放され、酒も飲めることが嬉しかった。
ケニア国境、モヤレへ。エチオピアの物価は安かった。

モヤレから、ナイロビ直通のトラックに乗った。
荷台を覆うシートの上に座ると、視界360°、サバンナや砂漠の荒涼とした風景が広がる。想像していたアフリカの自然がある。空は遠く青く、雲が流れ、 越えることがない地平線がある。隕石のクレーター、インパラやアフリカ象、原色の布とアクセサリーを身に付けた女性、手に槍を持ち牛の番をする青年。夕 方、マサイの人達が乗り込んできた。サバンナに沈む夕陽を一緒に見た。夜は宇宙の中だった。流れ星を追いかけて、南十字星を見つけた。ナイロビに着く間に 赤道を越える。荷台の中、積まれた麻袋の隙間で寝た。寒くて眠れなかった。盗賊が出るらしく、自動小銃を持った護衛が付いていた。翌昼、東アフリカの中心 都市、ケニア首都のナイロビに着いた。
ケニアのナイロビは、オフィス街に高層ビルが並び、スーパーマーケットやショッピングセンターもあり、大都市だった。しかし、ダウンタウンの治安は悪い。アフリカは、大都市が特に貧富の差が激しい。
準備を整えて、タンザニアに向かって出発。乗り合いタクシーで国境のナマンガへ。
ナマンガに泊まり、そこに住んでいる日本人と会った。彼は現地の女性と結婚し、教育支援を行っている。話を聞かせてもらい、貧困についてまた一度考えた。

タンザニアに入国し、キリマンジャロ登山基地、モシに着く。
着いた初日、ツアー会社と交渉し、契約内容を確認し、翌日登山を開始。キリマンジャロ登頂は目的の一つだった。しかし、直前でツアー会社側の契約変更。 その待遇や態度の悪さに腹が立ち、結局言い争った。脅されることもあった。もう山に登る気にもなれず、次の日のバスで町を離れた。
ダルエスサラームに行った。タンザン鉄道のチケットを購入。ザンビアビザの発給を待つ間、ビーチへ出かけ、泳いだり、ヤシの木陰でビールを飲んだりした。断水や停電が多いところだった。

ダルエスサラームから2日間、タンザン鉄道の終点はザンビアのカピリムポシ。車窓からはサバンナの雄大な景色だ。満月に照らされる大地は幻想的だった。 小さな駅に停車すると、客車の周りに人が集まる。窓越しにバナナやマンゴーを買った。乞食も寄って来る。面倒だ。そうでなくても、東洋人全部を“チンチョ ンチャン”“チーナ”と言って馬鹿にする。腹が立つことが多い。
首都ルサカから、バスを乗り継ぎリビングストンへ。ビクトリア滝は、乾季が終わったばかりで、水量が少ないらしい。
翌日、ジンバブエ側のビクトリアフォールズに行った。ここで同じ高校の出身者と会った。世界は狭い。

ザンベジ川の大峡谷に架かる橋が、ザンビアとジンバブエの国境。その橋には、高さ110mのバンジージャンプがある。挑戦しようと思ったが、他の人が飛ぶところを見るだけで十分。
世界三大瀑布のひとつ、ビクトリア滝を見物した。水量が少なくても、100m下の滝壺から上がってくる水煙と轟音が響く。すごい。
ビクトリアフォールズの街から列車に乗って、ジンバブエの首都ハラレへ向かった。
ジンバブエは今、政情の不安定から、インフレが進行中。紙幣価値は半年前の20分の1に暴落。買い物の時、札束を山積みにするのでレジが混む。
ハラレからバスでヨハネスブルグ、そこからレソトに行くことを決めた。バスは故障が多く、車中で2泊した。
南アフリカのヨハネスブルグは、世界的にも治安が悪い都市だ。実際に雰囲気は最悪。まさに無法地帯。危険だ。レソト行きのバスを乗り換えた。

レソトは、四方を南アフリカに囲まれた小国で、国土のほとんどが山地だ。
首都のマセルから山道を5時間、セモンコンという田舎の村へ。青い空を見た。高山植物の花畑がたくさんあり、風が心地よく、カウベルとヒバリの声が聞こ える。別名“天空の王国”。人が良く、素朴なアフリカに会った気がした。グランドキャニオンのような風景が広がり、緑と青が美しい国だった。宿が見つから ないとき、警察署にも泊めてくれた。

マセルから再び南アフリカ。ブルームフォンテンから、アフリカ大陸、最終目的地へ。車窓からは一面の畑と牧草地で、森はなく、岩と草原の山だ。テーブルマウンテンを見た時、ついにここまで来たかと思った。
ケープタウンへ到着した。外洋に出る大港を持つアフリカ西南端の都市。まるでヨーロッパのような街並だ。人種は白人の割合が増えている。夏なのに雪ダルマのクリスマスイルミネーションは変だ。
年末の混雑するシーズンで、最終的に、アルゼンチン・ブエノスアイレス行きのチケットを入手。初めての国際線だ。
喜望峰へ行った。
レンタカーで海外初運転。南アフリカが右ハンドル・左側通行で助かった。岩と草と潅木の丘を越えると、崖の上に灯台が見えた。誰もいない展望台で、大西 洋とインド洋を見た。快晴、強い横風、見たこともない植物、断崖で波が砕ける音と風の音、潮の匂い、水平線。ノールドカップから喜望峰、北緯71°から南 緯35°、ヨーロッパそしてアフリカの縦断が完成した。
その日、カイロで会った友人に再開し、テーブルマウンテンに登って夕陽を見た。夜遅くなって、警察の護送車に乗って宿まで送ってもらった。

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