7. 東チモール・インドネシア・タイ編 – Indonésia e Tailândia

報告【東チモール・インドネシア~タイ編】

東チモール、首都ディリの空港。
30人乗りの小型プロペラ機で2時間空の旅。太陽が眩しい。空気が濃い。復路のチケットは持っていなかった。片道航空券での入国。何か文句を言われたら どうしようか。いざとなったら賄賂か?役人に握らせてウインクでもしてみようか。しかし、自分の心配とは裏腹に、入管の質問は緩かった。「この国には初め て来るのか?」 「仕事? 観光?」 「どれくらい滞在するのか?」 問題なく無事に入国完了。17日間の滞在ビザが下りた。

最初に目に入ったものは軍隊の車輌と武装した兵士の姿。腕章にはマレーシアの国旗とPOLICEの文字。国連の平和維持部隊らしい。空港を警備しているようだ。彼らは英語を話せる。簡単に現在の東チモール情勢を説明してもらい、ついでに言語や習慣、物価について尋ねた。
ミクロレットという乗り合いワゴンに乗って市内に向かう。一律0.1USDだ(通貨はUSD)。安い。乗り込むと皆がこっちを見る。褐色の肌とポリネシ ア系とマレー系が混じったような顔。ここで話されているのはテトゥン語。かつてポルトガル領だったときの名残か、テトゥン語はポルトガル語に似ている。ブ ラジルで習った言葉が役に立った。とにかく笑顔で対応した。笑顔が返ってくる。ワンボックスの狭い車内にぎゅうぎゅうで詰めて乗る。触れ合う体温の熱で暑 い。汗が噴き出す。まだアジアに戻ってきた実感はなかったが、欲していた感覚が久しぶりに蘇った気がした。苦労せずに金があれば何でもできる先進国とは違 う。ここは自分で動き回って何とかしないと前に進めない場所だ。

車はボロボロ。バイクが多い。みんなゆっくり走っている。砂埃が舞っている。浜辺には漁船が上がっている。子供がたくさんいる。歩いてる人、木陰で休ん でいる人、露店や行商で野菜や魚を売っている人、軒先で飯を作ったり洗濯する人。商店や市場はあるがスーパーはない。高層ビルもない。熱帯の花と果実の匂 い。潮の匂い。ブロック塀とトタン屋根の粗末な家から溢れてくる生活臭。道端のゴミの山から腐臭。野良犬や豚や鶏が道路を横切っている。馬も牛も山羊もい る。雑然としているが混沌ではない。オーストラリアとは明らかに違う。生きている人々の熱い空気を吸った気がする。
廃屋や建設中の建物や道路が多い。公園や学校など、公共の敷地には国連やユニセフの白テント群。そこで暮らす避難民。街中をパトロールする多国籍軍。東 チモールは2002年5月にインドネシアから独立した。現政府は統治できない箇所を外部の助力に頼っている。いまだに住民との衝突もあるようだ。教会の (東チモールはカトリックが多い)敷地内に仮設テントがたくさんあった。白い生地にUNのマークが入っている。日本からの援助らしい。日の丸も入ってい た。
カメラを取り出すと子供達が寄ってきた。写真を撮って欲しいらしく、順番になって一人ずつポーズを作る。素直だし、笑顔はいい。だけど面倒。途中から撮る振りだけした。

インドネシアビザの取得のためにディリには一週間滞在した。ディリで一番安い宿に泊まった。一泊朝食付き5USD。しかし、断水や停電が多い。停電され ると扇風機が使えないので暑かった。外国人も何人か泊まっていた。自転車で移動しているスロバキア人旅行者、現地で商売をしているインド人、役所に勤めて いるレバノン人やインドネシア人。皆自分より年上だった。英語が共通語で会話する。
オーストラリアにいたとき外国人と話すのは好きじゃなかった。でも、この人達と話すのは面白かった。真面目な話もできるし、沈黙が苦にならない。昼夕兼用でゲストハウスの隣の食堂に通った。スリランカ人のオヤジがやっている。
ナシチャンプルーが1USD。惣菜が数種類載ったご飯とスープとアイスティーが付いている。味はまあまあ。量はかなり多いが自分は完食していた。そうす ると翌日にはもっと量が増えている。オヤジと仲良くなると毎回自宅用に作っているカレーをサービスしてくれた。このカレーの方がずっと定食よりずっと美味 かった。

道路の真ん中に花が置いてある場所がある。ある日、そこを通ったときタバコに火が点けて供えてあった。女の子が十字を切ってお祈りしていた。小学生らしい男の子がペンキと刷毛を手にして壁に何か描いていた。彼は『Dont Cry』と遠慮がちに描いた。視線を感じてこっちを向き、照れて笑っていた。近くを軍用トラックが通りすぎた。砂埃が舞う。トラックの荷台に座った白人の兵
士がこっちを見ていた。

ディリを出発してからが大変だった。
まず西チモール、インドネシアに行く。バスは未舗装の道路をゆっくり走った。よく揺れるし、乗り心地は悪い。屋根と通路に積んだ荷物の上にさらに人が乗 る。車内は外以上に暑いがクーラーはなく、窓を全開にして走ると砂埃が入ってくる。それに、東チモールやインドネシアのローカルバス車内でタバコを吸う人 は多い。よくパンクするのでタイヤ交換のための休憩が多かった。チモール島の西端、クパンからフローレス島に渡る船。これも疲れた。出港が12時間遅れて いた。フェリーが着くと、降りる人達より先に乗船が始まった。長時間待たされてみんな殺気立っている。悲鳴や怒号が飛び交う。桟橋が人で溢れて、何人か海 に落ちた。船内はまるで難民船。中は座る場所がない。甲板で休んでいるとスコールが降った。雨宿りする場所もなく、荷物も濡れる。 どこに行っても三味線ケースが目立つようだ。いろんな人に質問される。大抵の場合、頼まれて弾くことになる。大抵の場合、大勢集まり人垣ができる。楽しい けど疲れる。

フローレス島のエンデに到着。横長の島を西に移動する。目指すはバリ島。年越しはバリ島のビーチがいいかなーと考えていた。島内の交通はバス。雨季らし く、一日のうちに必ずスコールが降る。山や谷が多く、道は未舗装で曲がりくねっている。途中、橋が落ちている場所もあった。よく揺れる。隣の人が吐いてい る。バスも整備不良が多く、よくパンクしたり、エンジントラブルで停まった。トランクの中では荷物が漏れたガソリンに浸っていた。衣服もガソリン漬けに なってしまった。
乗り合いバンで地元の人は2000Rp払っている。自分には20000Rp(1USD≠9000Rp、インドネシアンルピー)要求してくる。もちろん ローカルプライス以上払う気はない。いちいち交渉するのも骨が折れた。しかし、フローレス島もスンバワ島も景色は良かった。意外と緑が少ないのが印象的 だった。オーストラリア大陸が近いせいで、降水量が他の島よりは少ないらしい。人々の生活は農業が主体。果物の木はそこら中にある。一家には必ず家畜がい て、人も犬も牛も鶏もみな動きがゆっくりしている。町や村にはモスクがあり、久しぶりにコーランを聞いた。

ロンボク島で友人と待ち合わせていた。彼女とは最初にシドニーで会い、タイまで一緒に行くことになった。誰かと一緒に旅するのは久しぶりだ。年末年始は宿が混むと思い、バリ島のクタビーチの宿で年明けまで滞在することにした。
バリ島は世界各地から観光客が多く、当然、観光業を商売にする現地の人たちも多い。街を歩いていると必ず声を掛けられる。相手にするときりがなく、無視してもすぐに次が来る。ここまで酷い場所は初めてだ。

ある日、両替をした時のこと。1USDが9490Rpの両替屋を見つけた。レートが良すぎる。こいつは怪しいぞ。眼の前で電卓を使って計算してくれた。 200USD×9490Rp・・・ “=”ボタンを押すと不思議なことが起こる。1613000Rp?電卓に細工してあるようだ。
どうやら“=”ボタンを押すと30%引きになるらしい。自分がちゃんと計算してやった。1898000Rp。これが正解。これじゃ札の枚数が合ってるの かも確かじゃない。自分がちゃんと札を数えてやった。すると、一瞬目を離した隙に200000Rpの束を机の下に隠す。「今、隠しただろ!ちゃんと出 せ!」そう言うと、今度は急に手数料を取ると言い出す。「お前らは詐欺師だ!警察に呼ぶぞ!!」脅してやった。奴らの顔色が冷めていく。愉快、愉快。両替 詐欺を相手に遊ぶ。奴らの反応を見るのが面白くて仕方ない。
自分も性質悪く成長したもんだ。

2006年、大晦日。カウントダウンでビーチに行く前にストリートで弾いた。 観客はバリで知り合った友人とツーリストが少し。稼ぎは大したことなかっ たけど、今年最後の思い出ができた。元旦の夜も宿の近くの食堂で弾いた。他のお客さんにも喜んでもらえた。楽しい正月になった、そう思っていた。それが、 思いもよらない事態に発展してしまった。

本気で非常事態である。
こんなことは旅どころか生まれて初めてだった。女の幽霊に取り憑かれてしまった。本気で困った。元旦の夜、金縛りに遭った。ベッドの縁から女性の顔が覗いていた。何か低い声で言っていた。何語で喋っているのかわからない。体は動かず声も出ない。
怖かった。その日から連日連夜続いた。金縛りと悪夢。相変わらず女の人がベッドの縁にいる。今までも金縛りや悪夢は見たことがある。でも毎日続いたこと はない。泊まっていた宿を移したし、部屋の入り口に塩を盛ってみたが、それは止まなかった。4日目に、泊まっていたホテルのオーナーに相談した。すると、 すぐに除霊するべきだと言う。バリ島のウブドにいる祈祷師のところへ行く。この祈祷師は強い力を持っているらしい。

祈祷師は自分を見るとすぐに気付いたようだった。「あなたに憑いてます」 (あ、、やっぱり俺なの?)彼はバリ語で状況を話す。ホテルの女将さんがそれ をインドネシア語に通訳する。友人がそれを日本語に通訳する。その霊は女性。長い黒髪。黒い肌。すごい美人らしい。踊り子なのか。その霊は自分に惚れてい る。その霊は俺と結婚したいらしい。正妻でなくても構わないから一緒になりたいそうだ。(元旦に三味線を弾いた夜からだから、もしかしたら三味線が原因で 引き寄せてしまったのか・・・)放っておくと自分が自分でなくなる。つまり、狂ってしまうらしい。この寺院には入ってこれない。だけど今も自分に付いてき ていて車の後ろで待ってるとか。“ミラ・マドゥ”と言う石を身につけろと助言された。その霊はこの石が嫌いらしい。帰りに聖水をくれた。

ホテルに戻ってから女将さんに聖水をかけてもらう。完全な除霊ではなくこれは気休めらしい。だから、どうしても“ミラ・マドゥ”が必要らしい。近所のお じさんが偶然その石を持っていたので借りることができた。“マドゥ”はインドネシア語で蜂蜜のこと。瑪瑙みたいな石だ。これを身につけて寝る。夜何回か起 きた。でも、金縛りや悪夢はなかった。翌日、その石を譲ってもらい、ネックレスを作った。それからは金縛りや夢に彼女が出てくることはなかった。不思議な こともあるもんだ。貴重な体験かもしれない。違う解釈をすれば、自分は幽霊にもモテるということだ(当然、三次元では女にも、男にもモテる笑)。でもこん な正月は嫌だ。早く日本に帰りたい、と本気で思った。
ちなみに、年越しに滞在していたクタでは、数年前に爆弾テロがあった。日本人も亡くなっている。(ちなみに亡くなった方も鈴木さん)自分はクタが嫌い だった。理由なない。直感で好きじゃなかった。大晦日にビーチで写真を撮ったときのこと。友達のデジカメに変なものが写っていた。白いクラゲみたいなもの がふわふわしてたくさん写っていた。自分は埃か何かだと思って気にしていなかったが、それは埃でもデジカメの故障でもなかったらしい。アレだ。バリ島。こ こは危険だ。現地の人も、そういう意味では良くないと言っている。この後、ジャワ島に行く。たぶん、彼女は付いて来るのだろうか。これが関係するかわから ないが、後々さらなる災難に巻き込まれた。

バリ島からジャワ島、スマトラ島へ移動した。スラバヤ、ジョグジャカルタ、ジャカルタ、パダンなどの町を経由した。スマトラ島のブキティンギ。泊まって いた宿に日本語学校の先生が訪ねてきた。先生はインドネシア人だが、日本語はだいぶ達者だ。彼の前で三味線を弾くと、「ぜひとも学校に遊びに来てくれ」  と言う。そこで三味線を弾くのである。 こんなチャンスは滅多にない。快く承諾して、その翌日、学校へ向かった。学校ではメインが日本語専攻で、英語クラ スも少しある。教室で自己紹介して後、三味線を弾いたり、生徒から質問があった。自分への質問は圧倒的に女生徒が多かった。「ブキティンギ ノ 街 ドウ  思イマスカ?」
「インドネシア ヲ ドウ 思イマスカ?」 「日本 ハ ドンナ 所 デスカ? 寒イ デスカ?」 「スズキサン ノ バイク SUZUKI デスカ?  HONDA YAMAHA 友達 デスカ?」 「スズキサン ハ 今 彼女 持ッテマスカ?」 「スズキサン! 一緒 ニ 写真 撮リマショウ!」 「ス ズキサン・・・!」 自分はモテモテだったと思う。ムスリムでスカーフを覆っている若い女の子に囲まれたのはこれが初めてだ。
生徒のほとんどが高校生で、大学生や大人も混じっている。高校生は明るく元気で、好奇心も旺盛だ。真面目に勉強している生徒もいれば、サボる生徒もい る。日本もインドネシアも学生は変わらない。嬉しくなった。次の日はスタジオで写真撮影。学校で、来年度のパンフレットのプロフィールを作るので、それに 載せる写真を撮ると言う。浴衣に着替えさせられ、連れの彼女は美容院で江戸時代の女性のような髪型にセットされてしまった。夜は先生が宿にやってきて、生 徒のスピーチ大会の原稿を考えたりした。こんなことがあって、ブキティンギに数日間滞在した。高原にあり、爽やかな風が気持ちいいところだった。

ブキティンギからマラッカ海峡に面したドゥマイに行き、そこから船に乗る。目指すはマレーシア。そして、交通事故に遭った。バイクにはねられた。 左半身の打撲と内出血が数箇所。左の肘は肉がえぐられた。体も顔も擦り傷や切り傷だらけ。鼻骨は折れていた。19日早朝、インドネシアを出発する日、夜行 バスで到着して港に向かう途中、まだうす暗かった。通りを歩いていて後ろから追突された。瞬間の記憶はない。全身痛かった。その場を動けなかった。血がた くさん出ていたのは感じたが、どこが痛んでいたのかわからなかった。バイクとバイクに乗った人は10m以上前に滑って転がった。周りの店や民家から人が出 てきた。集まった人達みんなが助けてくれた。しかし、バイクに乗った犯人は逃げていた。 ビザの期限が目前で、今日中にインドネシアを出なければならな い。体は痛んでいたが、なんとか船のチケットを買い、港へ行った。全身血だらけで、大勢の人が不審そうにこちらを見ていた。薬局で消毒薬を買い、待合室で 応急処置をした。身体がだるかった。

ドゥマイからスピードボートで2時間、マレーシアのマラッカに着いた。すぐにホテルへチェックインし、休んだ。打撲箇所を氷で冷やしたが、鼻に熱がある のが心配だった。翌日も彼女にいろいろ世話してもらった。連れがいたことは本当に助かった。一人だったら精神的にも大変だったろう。ホテルの人も親切にし てくれる。化膿しないように注意して消毒し、内出血している足や腕は腫れて痛かった。
鼻から顔全体が腫れ始め、気になるので病院へ行くことにした。抗生物質の注射を打ち、レントゲンを撮った。すぐに鼻が骨折しているとわかった。薬もも らった。 マレーシアの医療機関は先進国並み。設備も人も技術も心配なかった。自分は旅行保険は一切加入していなかったので、病院で診てもらうのは躊躇われた。しか し、自分が世話になった政府の病院は治療費が安く、レントゲン代やワクチン代や2週間分の薬も含めて110Rm(1USD≠3.5Rm、リンギット)で済 んだ。良かった。
不幸中の幸いなのだろうか。やっぱり不幸なのだろうか。でも、運が良い。まだ生きている。旅も続けられる。今年はどうしたものか。年始から不吉なことば かりだ。元旦に霊が取り憑いたことが尾を引いているのだろうか。例えば、その彼女はインドネシアを出る最後の日に事故を起こさせ、無理矢理でも自分をイン ドネシア国内に留めさせようとした。こう解釈もできるが、あまり深く考えないことにした。

マラッカで療養した後、シンガポールへ行った。51カ国目。特に用事はなかったが、東南アジア一の経済国を見てみたかった。
物価は高い。宿は一泊一人13SGD(1USD≠1.53SGD)、飯は一食4SGD以上。マレーシアの物価の3倍する。街は適当にぶらぶら散歩しただ け。近代的なビルの並んだ通りにはゴミが落ちていない。多少は落ちているが、マレーシアやインドネシアのそれに比べると少ない。夜は快気祝ということで、 彼女がご馳走してくれた。ビールを久しぶりに飲んだ。魚介類は美味かった。しかし、やっぱり物価が高かったので、滞在2日目にマレーシアへ逃げ帰った。物 価が安い場所は心に余裕ができる。

そのまま、首都のクアラルンプールへ行った。
年一度のヒンドゥー経の祭典、タイプーサムを見物した。今はインドでは行われていない苦行で、旧正月の満月の夜に、バトゥ洞窟の中で催される。バトゥ洞 窟は石灰岩でできた巨大な鍾乳洞。ヒンドゥー寺院がある。つまり、インド人の初詣みたいなものだ。しかし、矢を顔や体に突き刺したり、貫いたりして、その 痛みに耐えながら行進する姿は苦行以外の何でもない。トランス状
態の者もいる。それにしても、この祭りは人が多かった。東京のラッシュアワーの満員電車の如し。インド人だらけだった。かなり疲れた。

マレーシアは興味深い国だった。
国民はマレー人の他、中華系、インド系、またそれぞれの混血もいる。宗教はイスラム教が国教だが、仏教やヒンドゥー経も広く信仰されている。言語も母国 語のマレー語とは別に、公用語の英語もある。飯が美味い。朝はロティ(インドのチャパティのようなものにカレーが付く、0.6Rm)をよく食べた。マレー 料理はココナッツミルクで煮込んだ料理が多い。それより中華料理が絶品だった。やっぱり中華が世界でいちばん美味しいのだろうか(もちろん和食以外で)。 この国の経済力はシンガポールに次ぐ。インドネシアに比べると物価は高かったが、道路はちゃんと舗装されているし、ゴミもそんなに落ちていない。値段を 吹っかけてくることも少ないし、移動で使ったバスは全部3列シートでリクライニングできた。

マレー半島の東側を北上してタイに入ろうと思った。だが、結局、コタバルは通らず、そのままタイに入国した。
タイは52カ国目。
ここまで来る間、いろんな人からタイの話を聞いていた。物価はとても安いし、飯は美味いし、女の子は可愛いし、見所もあるし、とにかく良い所らしい。それくらいタイは人気があり、世界各地で逢った旅行者のほんどがタイに行ったことがあるようだった。
ハートヤイとクラビーで数日間滞在し、まだ事故の怪我も完治していなかったので、ゆっくり過ごした。その後、バスで一気にバンコクへ。

バスは普通にある長距離バス以外に、ツーリストだけを乗せるバスもある。こっちの方がホテルやゲストハウスからのピックアップも付いているし、エアコン も付いていて値段も安かったりする。バンコクに着いて、宿にチェックインしてからバックを開けてみて愕然とした。バックパックの中が荒らされている。しか し、貴重品は一切預ける荷物には入れていなかったし、何か盗られたり無くなっている物はなかった。連れの友達も同じくバックを開けられた痕跡があった。 ツーリストバスはこのように一部区間で盗難が多発しているらしい。特にタイ南部方面のバスは被害が多いらしい。バンコクではカオサン通りに近い宿に泊まっ た。カオサンは一時代前、バックパッカーの聖地と呼ばれていたらしく、今でも外国人の旅行者がたくさんいる。それに合わせて旅行代理店や出店、屋台が多 く、一日中人が多く、騒がしい場所だった。宿は一泊一人60B(1USD≠35B、バーツ)、飯は一食10~30Bくらい。特にすることもなかったが、だ らだらと一週間過ごした。

気がつけば、日本まではあと少し。頑張って急げば1ヵ月で帰れる距離まで来てしまった。今後のルートを検討する必要がある。その前にラオスに行こう。

所在地・連絡先 – Localização・Contato

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岩手県人会館はサンパウロの中心地にあり、地下鉄リベルダーデ駅より徒歩5分。近くには日本食品店、レストラン、ホテル、大学、病院、また、日系人の中心であるブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会(総合診療所、病院、援護施設)、それ以外にも10余の県人会や旅行社、銀行、邦字新聞社などがあります。