3. 南米編 – América do Sul

アルゼンチンーチリーパラグアイーブラジルーボリビア

ペルーエクアドルーコロンビア

12月11日、新大陸へのフライト。アルゼンチンのブエノスアイレスに到着した。
まず驚いたのは、英語が全く通じないこと。中国、モンゴル、ロシアを除けば、今まで英語が使えた。でも、アフリカから比べてしまうと、病気や治安の心配もしなくて済む。肉とワインが安い。女の子が可愛い。南米の印象は良かった。
南に向かった。目指すは大陸最南端の町、ウシュアイア。バルデス半島に寄って、途中、歩きながらヒッチハイクし、パタゴニアの荒野を60km歩いて野宿した。
マゼラン海峡を渡り、南緯55°ウシュアイア。首都ブエノスアイレスから3200km、南極大陸からは1000km。残雪と氷河の山。南氷洋からの冷たい風で気温は上がらず、年中の強風のため樹木が傾いて生えているところだ。
日本時間2006年1月1日12時、新年を迎えた。滞在していた日本人宿でNHK紅白を見た。そこには五右衛門風呂もあり、久しぶりに湯船に浸かった。刺し身や年越しそばや雑煮も食べた。旅先で良い正月だった。
ここからチリのプエルトナタレスを経由し、パイネをトレッキングしたりした。カラファテにもしばらく滞在し、パタゴニアの自然を満喫し、再びブエノスアイレスへ戻ってきた。路上で三味線を弾いた。ここにきて本格的に弾くことが多くなってきた。

ブエノスアイレスは居心地が良いので、ついつい長居してしまう。重い腰を上げ、バスのチケットを買って、イグアス方面に向かった。
パラグアイのシウダ-デルエステに行った。アルゼンチン側でイグアスの滝を見た。この滝は水量が計り知れない。巨大で驚いた。周囲はジャングル。テラロッサという赤土に密林が茂る。

次の目的地はブラジルのサンパウロ。
そして、サンパウロへ。

サンパウロはブラジル経済の中心地にして南米一の大都市。人口1500万で現在も発
展途上中。 ブラジルには、戦前移住の一世から始まる日系ブラジル人が140万人いるそのうち半分がサンパウロ州、そのまた半分がサンパウロ市に住んでる らしい。 中心に近いところに、“リベルタージ”という東洋人街(日本人街)がある。赤い大鳥居があり、日本語の看板で店があり、日本語を話す日系人(正 確には帰化した一世の日本人や二世三世)がたくさんいる。ヤキソバ、タコヤキ、スシも売ってるし、昔ながらの食堂もあるし、日本の食材も手に入る。

最近は韓国人や中国人が多くなってきたらしいが、それでも日本人が大勢いるような不思議な街だ。看板の連なる商店街は昭和のような懐かしい感じも受ける。

実際、日系文化は移民で構成されたブラジルにかなり影響してるようだ。 例えば食文化。今のブラジルを農業国にしたのは日系移民の貢献が大きい。ほとん どの野菜が日本から持ち込まれ、品種改良され、食生活を豊かにした。市場やスーパーに行けば、日本と同じような生鮮食品が並んでいる。

移民一世は、苦しい生活と耐え難い努力で、信頼や実力とともに“勤勉”や“真面
目”なイメージを作った。それが日系人の誇りである。 ペルーの前フジモリ大統領以前に、ブラジルでは日系の政治家が多く活躍していた。医師や弁護士、店 舗の経営など、今も多方面で活躍している。 日本語学校も多く、日本に興味を持つ日系人以外のブラジル人もたくさんいて、日本の文化も浸透している。和食 レストランでは箸を使っているブラジル人を多く見かけた。

地球の反対側に濃い日本が残るコミュニティを見つけた。 毎日いろんなことに驚かされる。母国ニッポンに対して、新しく発見し、認識し、考えることがあった。

宿を探していて、ひょんなことから、ここ、岩手県人会を知ることになった。そして、紹介してもらった岐阜県人会の宿舎に3週間弱泊まった。サンパウロには、各都道府県の出身者などで作る“県人会”があり、ブラジル内外や日本との交流や支援に協力している。
岩手県人会に顔を出せば、昼飯をご馳走になり、NHKを見て新聞を読ませてもらったり、夕方は飲みに連れていってもらった。太鼓教室や青年部の皆さんとも知り合った。すごい歓迎だったと思う。

千田会長をはじめ、皆様には本当に大変お世話になりました。

リベルタージの広場など、ストリートで弾いた。最終的に、サンパウロでの滞在費用を最小限におさえることができた。今まででいちばん受けが良かったように思う。

日系紙のサンパウロ新聞に載った。津軽三味線と世界一周がネタになったようで、タイトルは“しゃみ抱えて気儘な旅鴉”。脚色されてて恥ずかしかったが、いい土産ができた。
そして、その紙面を見たブラジル民謡協会の先生に拾われた。

サンパウロからリオデジャネイロの方向に150km、サンパウロ州のタウバテという小さな町。 新聞で報道されたことで知り合い、ここタウバテに住む海藤先生のお宅にホームステイすることになった。先生は日系一世、つまり日本人。ここでも大変お世話になった。

家族で楽器店と音楽学校を経営していて、先生は民謡を教え、和太鼓や三味線や笛
も作っている。メルカド(市場)で野菜を仕入れて売っており、家では毎日わざわざ変わった野菜や料理を食べさせてくれた。 楽器店の2階に部屋を借りて、 三味線や民謡の勉強をした。教室や出張先では三味線教えることもあり、太鼓の革張りや、メルカドの荷出しや仕入れなど、できることを手伝って、先生の家族 と寝食を共にした。

この間に地方版のテレビニュースに1回、地元の機関誌に2回出た。 「日本から来た旅人で、伝統芸能の津軽三味線を弾き、世界一周の合間に我が町に立ち寄った」 こんな内容だった。ポルトガル語でも載った。

先生の仕事で、イベントでは袴着用で演奏することも。ブラジルで舞台に立つことも袴を着ることも予想できなかった。とても貴重な経験。

ブラジルの食べ物は好きだ。 アルゼンチンも食肉の文化だが、アサードとブラジルのシュラスコ(肉を鉄串に刺して岩塩を塗して焼く)はだいぶ違う。主食 は米で、フェイジョンという豆を煮た料理が欠かせない。 ビールは気候に合わせて味が薄く、これも美味い。フルーツは種類が多く、安くて美味い。日本では 高価なマンゴーやパパイヤも驚くほど安い。ブラジルでジュースと言うと、その場で絞りたての100%のものを指す。

コーヒーはエスプレッソのように濃く、少量で、砂糖を何杯も入れて飲む。 ブラジル滞在中、各所で歓迎され、おかげで特に充実した食生活が送れた。

リオデジャネイロには日帰りで遊びに行った。
バスターミナルから見えた、丘の上に立つキリスト像。その“コルコバードの丘”に歩いて行ってきた。途中、ファベーラ(貧民層が住む地区)の近くを通っ たとき、黒人の男に後を追いかけられたり、ともかくなんとか丘の上に到達。世界三大美港のひとつ、リオの街が一望でき、良い眺望だったが、既にここまで 20kmを歩いてかなり疲れていた。丘を下って、イパネマ海岸からコパカバーナ海岸まで歩き、南米の開放的なビーチの雰囲気を味わった。

民謡教室や知り合った人から、「日本帰らないで永住しなさい」 と勧められ、縁談を持って来る勢いだった。 出発すると言うと、先生の家族からも引き止 められる。 海藤先生、海藤家のみんな、その親族の方々からも本当に親切にしてもらい、生涯忘れられないもう一つの“家”がブラジルにできた。
別れるのが辛かった。

ブラジルは忘れない。必ずまた戻ってくる。そう決めた。

ブラジル岩手県人会 千田曠曉様こんにちは。皆様お元気でしょうか。鈴木徹です。

近況報告します。2006/6/7 (サンパウロ~カルタヘナ)

昨日、パナマの首都、パナマシティに来ました。
ヨットの旅は大変で、結局、天気次第の一週間、カリブ海の上にいました。今も波に揺られている気がします。ブラジルなど、南米に移民船で来られた方々はさぞかし大変だったことでしょう。

先日レポートを作りました。間違いや誤字脱字があるかもしれません。
また、HPにアップするとき、前のレポートに会うように加筆訂正をお願いします。以下に送ります。↓

4月5日、長かったブラジルを発った。
リオグランジを経由し、パンタナール湿原を抜けて、ボリビアとの国境がある町コルンバ。この辺りは川が多いせいか蒸し暑かった。 ここから久しぶりの列 車移動、久しぶりのスペイン語、久しぶりのひとり旅。最初のうち、ホームシックになった。それほどに2カ月間滞在したブラジルが好きだったし、お世話に なった人達、思い出がたくさんあって、何度も戻りたいと思うことがあった。

ボリビアに入国して、国境のキハロから20時間、熱帯のジャングルの中を列車に揺
られて、ボリビア第二の都市サンタクルスへ。 ここまでで感じたのは、ボリビアの物価の安さと人種の違い。 飯は一食30円かからず、停車中に窓越しに売り子から買ったグレープフルーツは6個で15円、800km移動した夜行列車は600円くらい。

また、先住民インディヘナが全人口に占める割合が最も高いのもボリビア。アンデ
スの山岳地域まで行くと、ほぼ100%インディヘナになる。 街の雑然とした感じも含めて、どこかアジアのような雰囲気があった。 主食はジャガイモ。米 の飯も食べる。チキンや野菜などの煮込んだ料理が一緒に付く。油を使って揚げたものも多く、砂糖や卵を使ったケーキや、乳製品も悪くない。

山道を登るにつれて斜面から木が消え、土砂や岩が剥き出しの乾燥した景色になっ
た。 高度は一気に3000mを越える。長い坂を登ると、開けた平坦な土地になる。涸れた
川やなだらかな丘があり、深い谷がある。近くに見える山でも低くて標高5000m以上はあるだろう。山頂は雪が覆っている。 空は青く、雲は低く、強い陽射しと乾いた冷たい風が吹く。朝は毛布があっても寒い。

立法首都があるスクレ、鉱山都市ポトシを経由して、ウユニ塩湖の東の縁にあるウ
ユニの町へ。 ウユニから1泊2日で塩湖ツアーに参加した。 標高3650m。高所の塩湖としては世界最大の大きさで、雨季は水に浸かり、乾季は塩の湖底 になる。 一面に水が張って、水深が浅い時だと、風が吹いても波が立たず、塩湖の表面が鏡のように反射して空や雲を映すらしい。それは水平線も塩湖に溶け てしまい、そこに立っている自分が空中にいるように錯覚するらしい。 自分が行ったときは、雨季から乾季に替わる時期。タイミング悪く、一週間前に湖水は ほとんど乾いてしまったが、湖の上に建つ“塩のホテル”に泊まることができた。ホテルは、屋根以外は全て塩湖の塩。床も壁もイスもベッドも塩の塊。外は地 平線(水平線?)が見える。

この世界には大地の白と空の青だけしか色がない。凹凸がない白い湖底と紺碧色の
深い空。 夕方、人工物が見えなくなるように遠くに歩いた。 太陽が傾くと、昼間に見えなかったものが見えてくる。ひとつひとつの塩の結晶がきらきら光 る。大地には亀甲のような幾何学的な模様が刻まれている。陽が沈むにつれ、空と雲と大地の色が変わっていく。二度と同じ色に染まることはなく、激しく燃え るように焼けた後、頭上から宵闇が落ちてくる。

その日没の数分間、それまで吹いていた風が止み、音がなくなった。 昼から夜にスイッチが切り替わり、最後の色彩のグラデーションが終わる。モノクロに なる。ものすごい早さで暗くなった。空から宇宙に変わった。寒くなる。寒さに比例して星の数はどんどん増える。南十字星はあワりの星の多さに見失った。天 の川がよく見える。無数の流星。 衣服や髪の毛、耳たぶと風が擦れる音が聞こえる。月が出ると星は弱くなり、地面が青白く光る。雲が白い。氷点下だった。 寒さか高山病のせいか、頭が少し痛む。しかし意識は冴えている。
世界観が変わるような景色に会った。

ウユニから行政上の首都が置かれるラパスへ移動。 ラパスは標高3800m以上、ここまで来る間に高度順応はできたようだった。頭痛や夜眠れないという ことはなくなったが、さすがにすぐ息が切れる。 到着したその日、宿で知り合った友人が、日本大使館の職員と飲みに行くということで同席した。タダ酒が飲 めると思い、平地のペースで飲んでいたら酔いが早く来た。料理でも、水の沸点温度が低くなるため、ご飯や麺類は調理が難しく、芯が残ったりべちゃべちゃに なることが多いようだ。

気候もだいぶ違う。陽射しは強烈で、昼夜の温度差が激しい。夜朝は寒い。雨は少
なく、空気は乾燥している。 機会があり、本場のフォルクローレを見た。学割が効いて85円くらいで入場できた。生演奏は初めて聴いたが、チャランゴや ケーニャといった独自の民族楽器があり、リズムにのって哀愁味のあるきれいなメロディーを奏でていた。感動した。 ここで情報収集するうち、コロンビアで 5月28日に大統領選挙があるということが
わかった。外務省の危険情報を読んでも、コロンビアの情勢は不安定極まりない。いろいろ思案し、なんとか選挙前に中米に抜けようと結論に達した。

ラパスを出発しようと思ったとき、日曜に開かれる巨大な露天市場とプロレスの話を聞いた。日曜まで待ち、そこに行ってみた。この青空メルカドでは、新品 から中古品、車から墓石まで、ありとあらゆる物が売っていた。歩くだけでも楽しい。その広さは一日では回れない。ラパスは谷に造られた都市で、貧民層は谷 を見下ろす高台に住んでいる(金持ちは酸素が濃い低いところに住む)。無許可で非公式らしいメルカドは高台にあり、ラパスの全景を見渡せる。ここからの景 色は最高だった。

自分の興味があったのはプロレスの方だった。インディヘナが戦うレスリング。おそらくプロではない。内容はB級だが、インディヘナおばちゃん同士が戦っ ている。昼間は路上で野菜でも売ってるような、三つ編みで帽子被ってスカート履いたスタンダードなおばちゃん。三つ編みの髪を引っ張られると、会場の全員 が総立ちで激怒し、食べているチキンの骨がヒールやレフェリーに投げつけられる。めちゃくちゃだった。観客で本気で怒っている別のインディヘナのおばちゃ んがいる。面白かった。

ラパスを北上する。牧歌的な農村を走り抜け、しばらくするとチチカカ湖が見えて
くる。湖面の標高は3850m。 大陸一大きい淡水湖で、トルーチャ(マス)の養殖をしている。サケの親子丼ならぬトルーチャの親子丼が食べられる。 バスは船に乗って湖を渡り、山道を登る。湖面に白い雲が映っていた。

コパカバーナを経由し、ペルーに入国する。プーノへ行き、翌日、バスでクスコへ移動した。 クスコはインカ帝国の首都があった場所。16世紀、スペイン 人に支配される前まで、アンデス山中全域を支配していた。町にはインカ時代の石造りの道や壁が多く残り、今は西欧風のカテドラルなどの教会が多く建ってい る。マチュピチュ遺跡への拠点として観光化が進み、たくさんの観光客がいる。 一歩裏に入れば、ボリビアと変わらない先住民の素朴な生活があり、ここでも メルカドを探索するのは楽しかった。ラパスもそうだったが、この辺りの都市の治安は悪い。旅先で知り合った二人に一人は、強盗や窃盗などの何らかの被害に 遭っている。いろんな話を聞く度に自分は気を付けようと気を引き締めました。

マチュピチュは歩いて行ってきた。途中までバスを乗り継いで、最後は線路の上を徒歩。ツーリスト用の列車がぼったくりのような値段。往復で60USドル くらい。ペルーが南米一の観光立国だからだろうか。警察や警備員の監視を潜りぬけ、往復60kmを歩くと、往復4ドル未満に節約できた。 かなり疲れた。 つくづく貧乏旅には体力が必要だなーと思う。

遺跡には朝一番で行った。
麓の村から歩いて2時間。切り立った山の斜面や平坦になった狭い場所に、石で組まれた神殿や家屋、段々畑があり、背後のさらに高い山にある展望台から遺 跡を見ると、それが“謎の空中都市”と言われるわけがわかる。なぜ、このような場所に都市を作る必要があったのか。 太陽が出ると、薄っすらと覆っていた 霧が晴れ、谷の底を流れる川が見えた。ちょうど日本がGWで、日本から来た団体客もたくさんいた。

世界遺産にも登録され、あまりにも有名すぎるので、イメージが先行している気配がある。自分としては、人が少なく手が付けられていない(朽ち果てた)遺 跡の方が好きだ。クスコから首都リマを経由してエクアドル方面へ向かった。 リマでは、“セビッチェ”という魚介類を使った料理があり、これが最高だっ た。アジ、イカ、タコなどに、タマネギや香菜とレモンでマリネ風に仕上げたもので、トウモロコシやジャガイモを添えて食べたりする。朝昼夜セビッチェを食 べた。 途中、ピウラでバスを乗り換え、トゥンベスからエクアドルに入り、グアヤキルに行った。

リマからグアヤキルまでは太平洋に面した海岸沿いを走る。しかし、リマ周辺はそれほど暑くなく、霧が出ていることが多かった。海岸なのに砂漠もある。  エクアドルに近づくと、どんどん暑くなり、熱帯林が現れ、バナナやパイナップル畑がたくさんある。 エクアドル最大の外港を持つグアヤキル。流通の拠点で あり、ガラパゴス諸島への玄関口にもなっている。ここからバスルートは再び山間を行く。

標高2800mの首都キト。ラパスやクスコほどの高所にないので、キトは別名“永遠の春”と呼ばれる温暖な気候だ。ユネスコ世界文化遺産の第一号に認定 されたのが、この都市の旧市街。 アンデス地域の町なのに、ペルーやボリビアとはだいぶ感じが違う。整然として、格調がある雰囲気だ。治安も悪くない。い い街だった。

エクアドルは南米で唯一USドルがそのまま通貨になっている。それでも通貨価値はアメリカの数分の一だろう。 スペイン語で“エクアドル”とは赤道を意 味する。キトの郊外にある赤道記念館へ行った。地面に黄色い線が引いてある。 緯度0度。アフリカのケニア以来。7カ月ぶりに北半球を踏んだ。 大使館へ 行って、隣国コロンビアの情報を集めると、案の定、職員は旅行に反対していた。

エクアドルは居心地も良く、できたらスペイン語でも勉強しながらもっとゆっくりしたかったが、大統領選挙が迫っているコロンビアを早く通過しなくてはならない。先を急いだ。

コロンビアに入ったのが5月15日。中国から数えて36カ国目。 コロンビアに入ってすぐ、南部のパストで道路封鎖があった。反政府武装組織と軍が交戦 中らしい。2日間、カリ方面への公共交通が動かない。足止めくらった。封鎖が解かれる時を狙って移動再開。その後もいろいろ検問に引っかかったり、全然良 いことなかった。 軍警察の尋問や荷物検査の対応に腹が立ち(三味線のケース壊すし、金銭要求してくるし、)警官を殴りそうになったが、そこは自制心。旅 がそうさせたのか、日本で暮らしていたときより感情的に実直に行動している。

途中、カリ、メデジンの都市でも、バス到着直後にオフィスに連行されたり(自分は不審者に見られているようだった)、嫌な思いしただけで、どこにも滞在 せず、直接コロンビアの最終目的地、カルタヘナまで来た。 でも、選挙の直前に何事もなく来れただけで運が良かったかもしれない。自分が通過した翌日に戦 闘が始まった地域もあるし、バスが略奪されて放火されたニュースも見た。

コロンビアの北、カリブ海にあるカルタヘナ。ここにある日本人宿のオーナーの依頼で、エクアドルのキトから運んだ醤油、1缶4L。成功報酬はロブスター 1kg。刺身とオーブンで蒸焼きにして食べた。とにかく美味かった。昼間はビーチに出かけ、泳いだりして、喉渇いたらビール飲んで、ゆったり休息した。  滞在中、裏の家で発砲事件があった。やっぱり治安は悪いみたいだ。さすがコロンビア。

選挙は何事もなく終わり、この後、ヨットハーバーでパナマに行く船を見つけて、交渉して乗せてもらうことになる。この半年で、旅に支障がない程度、スペイン語は話せるようになった。

以上です。↑

>メールありがとう。
>コロンビアも無事通過、パナマへ向かうとのお知らせ安堵致しております。
>旅の続きのレポート難しいでしょうか。暇があったらお願いします。
>県人会ホームページは、続きになっております。宜しく。
>次の目的地へ無事着くことを願っております。
>
>ブラジル岩手県人会  千田

所在地・連絡先 – Localização・Contato

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E-mail: iwate@iwate.org.br

岩手県人会館はサンパウロの中心地にあり、地下鉄リベルダーデ駅より徒歩5分。近くには日本食品店、レストラン、ホテル、大学、病院、また、日系人の中心であるブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会(総合診療所、病院、援護施設)、それ以外にも10余の県人会や旅行社、銀行、邦字新聞社などがあります。