8. ブラジル南部地方を巡る – Brasil

1日日(2001年10月24日)

今回の旅は乗用車でパラナ州とサンタ・カタリーナ州を巡る事になった。
サンパウロよりカステロ・ブランコ高速道路に出て、途中から左に曲がりパラナ州を目指し、先ずはポンタ・グロッサの岩山で有名なビーリャ・ベリャに向かった。
五百キロ以上も走り現地に到着した所、入り口の係が現在閉鎖されていると言う、そんな馬鹿な何故だと聞いた所、観光客の捨てたごみが酷くて現在清掃中だ と言う、普通観光地はドル箱で急いで修理なり清掃をするはずなのに、おかしな話だ、遠方から見に来てやったのに、振られてしまった。
折から雑草も伸びていて癪に障り一首
夏草や ツアー者共が ゴミの跡
仕様なしにイグアスーの滝にでもと思い、カスカベル市目がけて走りだす、途中に川があり名前がカラカラ川、直ぐ側にカイゼル印のビール会社の工場があった、喉がカラカラにビール工場とは面白い取り合わせだ。
次の町のプルデントッポリス市のガソリンスタンド兼簡易ホテルで一休みすると、ホテルの親父が滝はイグアスーだけではなくこの郡にも有ると言う、これも何かの縁だとここで一泊し明日その滝の見物することにして案内者を一人依頼する。
この地方の人々が大勢集まりビールを飲みながらこの辺の歴史の話をする、それを聞くのは大変勉強になる。
百年程前にウクライナから移民として入り、現在では煙草とフェイジョン豆の生産ではブラジルで一番を誇るとか、教会もローマンカトリックの他に彼らだけの教会を持ち
、中には未だにポルトガル語が苦手な者もおるそうだ。

2日目(2001年10月25日)

約束通り案内者が来た、若い彼はウクライナの四世で、これから当地の観光業を大いに振興させると張り切っていた。

先ずはと一番落差のある滝サン・フランシスコの滝に案内してくれた、落差なんと196メートル、寡聞にしてこの辺にこんな滝が有るとは知らなかった。
谷の反対側の崖っぷちから覗くのであるが、足元が震えるのは昨夜の飲み過ぎのせいだけでは無かった。
高さ130メートルの向き合った二つの滝とか、丸い窪みが河床にあり、案内者に聞いた所一寸した凹みに小石が入れば水流の勢いで小石が回転しその摩擦で窪みになるとか、その他あちこち案内してくれた。
説明に因ると五十程の滝が有るそうで、とても付き合い切れないので、四ケ所だけにして午前中で終わる事にした。
帰りに地酒のピンガを土産に買う。
この地方の地形は斜面が多く大型機械農業には不向きで、鍬と馬を使った昔式の農業の伝統を保って隅から隅まで耕している、案内者はここの農民は鉄砲で種蒔きをし、投げ縄で収穫をするなどと冗談を言う。
夕方又もや人が集まって来てお互いのピアーダ(冗句)の交換をする。

3日目 (2001年10月26日)

滝は見たからとイグスーに行くのを取りやめ、反対側に方向を転換させ、サンタ・カタリーナ州のラグーナ市に行くことにした。
ここは先年NHKで放送したイルカがボラ漁の漁師の手伝いをする有名な所で、是非見に行かなければと相談が一決し、クリチーバ市を横目で見てフロリアノポリス市にも格別な関心も持たないで、夕刻前に到着した。
新市街地には新築マンションが幾棟も建っている、こういう所は避けてフェリーに乗り旧市街に行き宿を探す。
ここは観光シーズン用に素泊まりのペンションが多数あり、容易に宿は見つかり然も安い。
近くの安レストランで夕食をし洗濯もして寝てしまう。

4日目(2001年10月27日)

肝心のイルカは少数居たが、ボラのシーズンは四月五月でその頃来て、イルカと漁師の息の合った作業振を是非見たいものだ。 市内をあちこちドライブし一路南下し途中で一泊。

5日目(2001年10月28日)

ポルトアレグレ市からペロッタス市を横目で見て、ブラジルの再南端のシュイ市に昼頃到着した。 街の真ん中に大通りがありそれが国境でウルグアイ側にはカジノ、免税店がずらりと並んでいる、対象はブラジル人なのは見え見えで、ブラジルの周辺国国境には必ず免税店、カジノがある。
ついでだからウルグアイに入って記念に入国スタンプを貰おうと一キロ程入った所で、入国審査官にどうしてこの町はシュイと呼ぶのか聞いたら、これはシュイー、スイーと鳴く小鳥がいたので、その鳴き声からインヂオが名付けた地名と言う。
それでは我々もスイースイーと行くかと、一路モンテビデオを目指した、リオ・グランデ・ド・スール州の南部もそうであるが、道路が真平の真直ぐで地形が 平坦であれば道路をカーブさせる理由が無いのに気がついた、道路は穴一つ無い立派な国際道路で両側から盛り上げた為に少々の降雨があっても通行止め等は無 い、側溝には水が流れている所を見れば多少は勾配があるのだろう。
路面の左右には水田が開けていて視野を遮るものは何もない、途中珍しくカーブがあり面白い標識を見た、看板に飛行機の絵があり、その内道路の幅が倍に成った、恐らく臨時の滑走路に使用するのであろう。
ブラジル国境から四時間程で首都モンテビデオ市に着いて仕舞った。
ここには知る人ぞ知る、アルゼンチンの国民が外貨預金をする銀行があり、自国がインフレになると預金をするのである。
そこでアルゼンチン政府は条件の頗る良い国債を発行しその対抗策としたのであるが、その為にその国債を購入して被害を被る人が増えたのである。
モンテビデオは以前姉夫妻(松本トミ、定次郎氏)とブエノス側から入国を試みたがフェリーボートが出た後で果たせず、今回が最初の訪問で市内の地理を知るべくも無いが、地図が無くとも水は低きに流れるで、河には市街地を下がって行けば良いと見当を付けて直進したら、ブエノス・アイレス市へ渡るフェリーボートの港(ラプラタ河)に出て仕舞った。
到着したのが午後五時で先ず今日はここでゆっくり一泊し明日渡ろうかと、話を聞きに行ったら、例のごとく世話役が出て来て、両替を手伝います、切符を世話します、通関入国の世話もします、と大変な親切振り。
時間を聞いたら、後一時間で船が到着し二時間後に出発するという。
参考までにアルゼンチンの為替相場は以前1ドル1ペソで有ったのが、現在ではブラジルのレアルと同じで比較的楽になった。
渡りに船と切符を購入、車は一人分と計算し、一人分44ドルでその三倍を支払って、無事乗船出来た。
たかがラプラタ川を渡るのに一寸値段が高いと思ったが、所がさにあらず、船内に免税店がありそこで買い物をすればそれぐらいは浮く勘定なのである。 然し売っている品物は飲み物とか我々の興味を引くものは何も無く、結局高い渡し賃であった。
双胴の高速船で30分も有れば到着するのかい、と尋ねた所2時間40分掛かるという、地図を見れば判るが、ラプラタ河は河口近くで急に広がり、然もブエノス・アイレスは斜め向いの対岸であるために余計時間が掛かるのである。
夜中の十時頃宿を探すのは億劫だが、その時はその時と余計な心配はしない。
夕方の景色から夜景に変わり夜中にブエノス・アイレスに到着したが、先ずは宿さがしとガソリンスタンドに寄りバスの発着所を尋ねた。
従業員が一寸来てくれと事務所の内部に案内し、こういう所で道を聞いては危険だという、心配してくれて有り難う、だが我々日本人には体内にチップが挿入してあり、変事が起これば直ちに、警察に通報する事になっているから心配無いよ、とハッタリをかます。
最近それが本当に実現していると先日の新聞報道に有った。
レコレータ地区のバス発着所の近くのAV.リベルタドル(Av.del Libertador)のセントラル・ホテルに宿を定めた。
この辺は旧中心街でサンマルチン広場が直ぐ側で観光には極く都合が宜しい。
ただしホテルは昔の最新式であるから、あまり期待しないほうが宜しい。 駐車場が無い為近くのを借りるより仕様がない。 この辺はブエノスでも屈指の高 級地区で公園、広場、大使館、高級マンションが多く、レストランとかバーが近く便利さこの上無しである、早速近くのレストランで、夕食をして寝てしまう。

六日目(2001年10月29日)
パラグアイを目指す

近くのフロリダ街には友人の原田氏が旅行社をやっているが、旅行の趣旨から外れる為に敢えて訪問せず失礼する。
ブエノスアイレスは次回パタゴニア地方を回るために再度訪問する予定であるから今回は観光を割愛する事にする。
地図で方角の見当を付け標識にしたがってパラグアイを目指す、街道で途中ランチに寄ったアルゼンチンの店で、主人と思わしき人物に今回はおとなしく帰る が、次回はパタゴニア迄行くと話したら目を丸くして驚き何でそんな無駄な旅をするのかと不思議がる、当然彼は一度も行ったことが無いのだ。
出発以来雨には一度も遭わず快適なドライブである。
良く疲れないねと聞かれるが自慢ではないが我に特技あり、日中運転中に疲れて眠くなっても何時でも何処でも熟睡出来るのである。
木陰に車を止め、眠る前に時計の分針を見て五分たったら必ず目が覚めるぞ、と自己暗示を掛けてから眠れば、三十秒とは違わずに眼が覚めるのである。
これには兄も驚いていた、僅か五分間にイビキをかいて眠ったそうである。
その昔セールスマン時代に鍛えた技で、道中昼食時シュラスコを食べた後昼寝をするのが習慣であったが、その頃身についたものらしい。
途中警察官にストップをかけられた、書類を一見しメルコスールで通用する自動車保険に入っていないと、難癖をつける。
そんな物は見たことも聞いたことも無いとつっぱねると、それでは罰金の対象となると脅かす。
その手は先刻ご承知で、
『警官対旅行者では無く友人として話をしよう』
と相手をして収賄の可能性アリの気持ちを抱かして置いてから
『実は昨夜強盗に会い金を取られたが、頼み込んでアスンシオン迄のガソリン代だけは勘弁して貰って、警察にも被害届けもせずに帰りを急いでいるところだ』
と騙したら、
『アスンシオンから先はどうする』
『友人から借りてサンパウロまで帰るんだ』
『本当に大丈夫か』
と向こうが心配をしてくれる、渡る世間に鬼は無し。
昨年(2004年12月)盛岡の本家の甥(藤村勝巳)が遊びに来てくれてフォス・デ・イグアスーの瀧に行ったが、うっかりして運転免許証も車検証も持参するのを忘れて連邦警察の一斉検査に引っ掛かかった。
相手が婦人警官で免許証拝見と来たので、
『貴女は若くて、美人で、聡明で、スタイルも良いから物忘れなどしないだろうが、自分のような白髪の老人でアルツハイマー病ではそうも行かずウッカリ持って来るの を忘れた、何なら携帯電話を貸すからわが家に電話してご覧』
『仕様がない今回だけ見逃すから、若し他所で捕まってもここでの事は言わないでくれ』だと。
ついでに警官の話であるが、パラグアイで日中走行中詰め所でストップがかかり
『何でライトを点灯せずに走っているか』
その昔バイクで走り回ったころは点灯走行は常識であったが。
『ここは昼でも暗黒の国か』
とからかったら、これを見ろと法律の条文を読めと突き付ける。
例の罰金請求でその実何かに有り付く魂胆は見え見えであるが、当方は慣れたもので、今度はどの手でやろうかなと余裕たっぷり、
『これは当方のミスで罰金を是非払いたい、しかし金が無いから車をここに預けて置いてサンパウロからの送金を待つ事にしたい』
『その間どこに寝泊まりをするのか』
『お前さんのベッドに寝かしてもらう』
『それは困る』
『では金を持って来るまで車を預かるが、もし少しでも塗装に傷が付いたら訴訟沙汰にする用意がある』
『では今回だけは特別に見逃そう』。
右側にラプラタ川を見ながら快適なドライブをし、アルゼンチンとパラグアイの入国検査をしついでに両替をして、エンカルナシオンを通過した。
さてピラポを回ろうかそれとも首都アスンシオン経由でイグアスにしようかと迷ったが、アスンシオンにはかなりご無沙汰しているので、遠回りながらそちらに向かう事にした。
途中茶畑をみたり、牧草地帯を通過し夕方到着し、ここまで来ればこの先は何度も通った道路で先ずは一安心、いざとなれば友人知人はパラグアイには多く何の心配も要らない。
アスンシオンに夕方無事到着し例のごとく早速バス発着所近くに宿を定め、夕食は牛飲寡食で済まし寝てしまう。

七日目(2001年10月30日)

市街地をみても仕様がないから、一路ブラジル国境の町シウダー・デル・エステに向かう、その内左側にCOLONIA YGUAZUと芝の刈り込みをし白い文字が地面に見えてきた。
これぞ名高いイグアスー植民地である、数回訪問しているが最後には先年姉夫妻と訪問し、その後若くして亡くなった娘さんを日本の三原正人社長(三協技研)と共に墓参をしてから、ご無沙汰をしていた所である。
菅原校長先生を慕って学校に寄った所、女性教師にどなたに会いたいか問われ、菅原校長先生をと申した所教員室まで案内されご挨拶の後、今夜は是非泊まって行けとの仰せで宿までお世話下された。
農業組合に案内されたり、JICAより譲られた石切り場を見学、そして有名な伊藤勇雄氏の長女ご夫妻を訪問した。
夜は我が兄(藤村秋夫)の為に岩手県御出身の皆さんで歓迎会をしてくれた、ここにはカラオケがあったり大盛会であった。
実は筆無精の筆者は未だにお礼をして居なかったが、八月のピラポ移住地45周年記念式典で先生にお会いしお礼ができた。

八日目(2001年10月31日)

早朝出発シウダー・デル・エステで出国手続きをし、免税品には目もくれず素通りしブラジルに入国したが、誰も止めなかった為に入国手続きを忘れてしまった。
フォス・デ・イグアス市に宿を定め、早速イグアスーの瀧見物に出掛けた、前回来た時とは異なり観光センターが出来ていて、そこから瀧の側までバスに乗って行くシステムに成っていた、ところが本日は時刻が午後5時を過ぎていてむだ足になった。

9日目(2001年11月1日)

早めに朝食をすまし瀧の見物に行く、観光センターの駐車場に車を預けバスに乗り込み途中から徒歩に移る、滝が見えて来て
『ワー物凄い水量だわが家の水道より多量だ』
と言うと側に居たブラジル人がそうだ
『わが家のトイレの脱水装置より物凄い』
と話が合う。
ここでロンドリーナの佐藤誠志氏とタカシツールの社長に会う、昼食を一緒にし思い出話をした。
今回同氏は日本人団体客の添乗員として来たことを知る。
ついでにイタイプー発電所を見ようとしたら、午後は閉鎖して入れないとの事、観光客をして出来るだけ足止めを食らわして、余計金を使わせようとの魂胆らしい。
然らば、おさらばと決めてカスカベル経由でプルデントッポリスに再度宿泊しようと出発した、所が通過時刻が宿泊には些か早すぎるために、クリチーバの手前道路端のホテルに一泊。

10日目(2001年11月2日)

クリチーバ市は横目で見て通過しこのまま帰聖(サンパウロに帰る事)では芸が無さ過ぎると、BR116号線から左折し有名なカベルナ・ド・ジアーボ(悪魔の髪)鍾乳洞に向かう、客は我々二人きりであったが、ガイドが丁寧に案内してくれた、その殆どは忘れたが岩の形状にあだ名を付けて観光客の印象に残そうとの努力に感銘。
岩泉の龍泉洞はあまりにも有名であるが、それに比較しても後れはとるまい、殊に当地は地震が無い故か鍾乳石も石筍も信じられない位に細いものが有る。
興味の有られる方には是非一見を推奨しておきます。

11日目(2001年11月3日)

ここから強行すればサンパウロに帰れるが、急ぐ旅でも無くついでに大西洋に出て、イタニャエン(サントスより20Km程の静かな保養地で海水浴場もあり日系人が多数居住)に行こうとコースを定め午後に到着し、市内を車で走り回り一泊する。

12日目(2001年11月4日)

早朝カフェを済まし一路サンパウロに向かう、何事も無く到着、ウッカリして走行距離を調べるのを忘れてしまったが、相当な距離を走った筈である、地図でも調べられるが面倒臭いので止めた。
友人がどの車で行って来たかと問うが、この車だと十年以上乗っているサンターナを示した所目を丸くして『この車で』と驚く、車はボロでも心は錦サ、と答えて置いた。
夜はイソイソと皆が待っているリベルダーデの一角のバーに一杯飲み行く。

以上

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岩手県人会館はサンパウロの中心地にあり、地下鉄リベルダーデ駅より徒歩5分。近くには日本食品店、レストラン、ホテル、大学、病院、また、日系人の中心であるブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会(総合診療所、病院、援護施設)、それ以外にも10余の県人会や旅行社、銀行、邦字新聞社などがあります。