1. アジア・ヨーロッパ編 – Europa-Ásia

中国ーモンゴルーフィンランドーデンマークードイツーチェコーイタリアークロアチア地域ートルコ

2006年2月13日に、上記鈴木さんがブラジル国サンパウロ入りしました。彼にお願いし県人会ホームページに旅日記を公開して頂くようお願いし、ここに掲載します。 (ブラジル岩手県人会)

2005年6月15日22時、雨の東京駅八重洲口から夜行バスが出た。

夢の世界一周。自分で課した条件は、五大陸を一歩ずつ踏みしめ、来た道は戻らず西回りで一周すること。海外は初めてで、何も知らないし、旅の仕方もわからない。一世一代の冒険になるのだろうと思っていた。
翌朝、三宮駅に到着。神戸は晴れて夏のように暑い。中国の天津まで2泊3日の船旅。フェリーターミナルの中で出国手続きを済ませ、パスポートに初めての出国印が押された。
瀬戸内海を進み、関門海峡を通過し、翌日には東シナ海に出て、時計の針を1時間遅らせた。フェリーは中国船籍で、添乗員は中国人、船内の表記も中国語。気が付くと、いろいろなものが日本ではなかった。外に出て景色を見る。曇っていて、陸や島は見えない。

海水が濁ってきた。3日目の正午、入港する。大陸の港だ。大きい。ついに来てしまったと思った。中国の入国スタンプが押される。
最初の目的地は北京。まず、バスで天津駅に行った。しかし、当然ながら日本語は通じないし、英語も通じない。船で会った日本人の旅行者に同行することにして、内蒙古のフフホトに列車で行くことにした。
翌日、寝台列車でフフホトに着く。周囲は乾燥していて、木が少なく、荒地のように見える耕地が広がっている。スケールの大きさ驚き、見るものすべてが新 鮮だった。ここからモンゴル国境の町へ、日に1本バスが出ているらしい。半分壊れているようなバスで乾燥した草原や砂漠を進み、陸路で2カ国目モンゴルに 入った。

モンゴルには約3週間滞在した。数日間、ゲル(伝統的な移動式住居)に泊まり、馬に乗って草原を駆けた。羊肉を自炊調理しながら生活した。初めての長期滞在で、この国は印象に残っている。
年に一度の祭典、ナーダムを見た。モンゴル相撲は1000人が最後の1人になるまで闘い続ける壮絶な競技。弓射の遠当てや、子供のみ参加する馬の長距離競争などがある。
モンゴルの女の子は、痩せてはいるが、朝青龍みたいな感じで、あまり可愛くなかったように思う。

モンゴルのウランバートルを出発して4泊5日、シベリア鉄道に入って、一路モスクワへ。
6266kmの世界の車窓から、シベリアの大地に架かる二重の虹を見た。ひたすら西への移動、1日1時間ずつ時差が縮まる。ロシアの田舎は平和だった。 トランジットなので、モスクワやサンクトペテルブルグには滞在せず、すぐに列車とバスを乗り継いでフィンランドに向かう。

フィンランドの首都、ヘルシンキは北欧で一番美しい街だと思う。道路は全面石畳で、坂が多い街の中を路面電車が走り、かもめが飛んでいた。
白夜とミッドナイトサンを見るため、北極圏内に向かった。ミッドナイトサンは真夜中でも太陽が沈まず、太陽は水平線の上を西から東に移動する現象。ヨー ロッパ最北端、ノルウェーのノールドカップ岬へ行った。北緯71°の海原と、目的の一つだったミッドナイトサンを見ることができた。森林限界0m、残雪の ある岩だらけの山や草原にトナカイが歩いていた。フィヨルドは絶景。曇ると昼も寒い。夜中も明るいので変な感じだった。南下して、一日に夜が来たとき、当 たり前のことを嬉しく思った。
ベストシーズンの北欧は、青空と森が湖に映るような、自然が豊かな場所だった。

そこから約2600km、自己新更新のヒッチハイクでオスロを経由、デンマークのコペンハーゲンへ。
ヒッチハイク中は様々な親切に触れ、ご馳走になったり家に泊めてもらったりと、貴重な経験ができた。たいして英語もできないくせに良くやったなと思う。物価の高いノルウェー。金を使わず移動できたのは幸いだった。
コペンハーゲンでは、一人で旅している在日韓国人の女の子に会い、久しぶりに日本語を話した。彼女との出会いは、自分の旅の意味も含めて、改めていろいろ考えた。

ドイツのベルリンに到着し、父の友人であるドイツ人夫婦の家に滞在していた。ホームステイのような感じで、運動もせず、ドイツの家庭料理をきっちり毎食いただいていた。
ベルリンに滞在しながら、エジプトとケニアのビザを取得。肝炎や黄熱病、破傷風、ジフテリア、チフス、ポリオの予防接種と、マラリアの予防薬を買った。今思えば、必要ない注射もあったのだろうか。
スペイン・ポルトガルから船でモロッコに渡り、アルジェリア、チュニジアを通過してイタリアに行こうと考えたが、断念。国境は閉まっている場所もあるようなので、今後のルートの組み立てを慎重に決める。

チェコに行くことにした。
プラハやチェスキークルムロフなど、世界遺産の街を見て、ソーセージやジャガイモでビールを飲む毎日。チェコビールは最高だと思う。ドイツやオーストリアより美味かった。
理由はなく、歩いて国境を越えた。オーストリア側の町まで山道を3時間。怪しく映ったのだろう、途中で警察に捕まり尋問された。無事にスタンプをもらい、オーストリアのリンツへ。
鉄道でザルツブルクを経由し、インスブルックへ。天気が悪く、アルプスの山々は見れなかった。仲良くなったドイツ人の車に乗せてもらい、アルプスの峠を越えた。垂直の崖のような峠は、まだ雪も残り、山に囲まれた深いU字谷は絶景だった。
イタリアに入り、ヴェローナに滞在しながらヴェネチアを観光した。
北イタリアの物価は、ドイツやオーストリアより高くて困る。安いのはワインくらい。ピザやスパゲッティはさすがに美味い。ローマで最後のワクチンを接種。ベルリンの半額だったのでショック。
ナポリから夜行列車でシチリア島へ。バカンス気分を味わった。地中海は気持ち良く晴れていた。

ルートを検討した結果、ギリシャには行かず、旧ユーゴスラビアを通ることに決めた。
最初はクロアチアのドブロブニク。“魔女の宅急便”のモデルになった街らしい。城壁中の旧市街は、坂が港に続き、オレンジの屋根の間にアドリア海が見渡せる。良いところだった。
ボスニアヘルツェゴビナ、セルビアモンテネグロを通った。モスタルやサラエボは、砲撃を受けて廃墟になった建物が多く、家の壁には弾痕も残っていた。移 動中、地雷地帯の看板や、新しい墓石もたくさん見た。自然が豊かで、実りや人も良い場所なだけに、何故争う必要があったのか。理解できない。救われたの は、旧ユーゴには美人が多いこと。表向きは平和に見えた。

ブルガリアは物価が安く、ヨーグルトの煮込み料理が絶品だった。サラエボやベオグラードもそうだったが、町はロシアのような雰囲気がある。
ソフィアから乗ったイスタンブール行きのバスに乗った。密輸バスだった。タバコや酒を大量に隠していて、国境の検問で摘発されて大変だった。疲れた。

トルコは過しやすい国だった。
イスタンブールは、ヨーロッパとは全然違い、アジア色が濃い。早朝から深夜まで、モスクから礼拝を呼びかけるアザーンが聴こえて、イスラム圏に入ったことを実感した。
トルコ人はムスリムのくせに酒を飲むし、女性もタバコを吸ったり、格好も普通だ。豚肉も食べるし、敬虔なムスリムは少ない様子。陽気な人が多い。
トルコ飯は種類も多く、美味。物価が意外と高かったので、節約しづらい国だった。イスタンブールで初めて日本人宿に滞在した。中東方面の情報を仕入れた。
ここで初めて津軽三味線をストリートで弾いた。ホームレスからジュースをもらっただけだった。今思えばヨーロッパでやるべきだったのか。

イスタンブールでシリアのビザを取った。バスを乗り換え、アレッポに向った。この辺りの気候は、乾燥していて、昼は暑くても日陰は涼しく、夜は寒くなる。町の郊外は、岩や土の砂漠だ。

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岩手県人会館はサンパウロの中心地にあり、地下鉄リベルダーデ駅より徒歩5分。近くには日本食品店、レストラン、ホテル、大学、病院、また、日系人の中心であるブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会(総合診療所、病院、援護施設)、それ以外にも10余の県人会や旅行社、銀行、邦字新聞社などがあります。