6. ニュージランド・オストララリア編 – Oceania

報告【ニュージーランド・オーストラリア編】

10月11日18時30分。
ロスアンゼルス発、タヒチ島経由、オークランド行の飛行機が出発した。 出発前、またもや一悶着。
航空券はニュージーランドまでの片道。そこで、ニュージーランドからオーストラリアのチケットも用意しておいた。出国用のチケットは、空路入国で必ず必 要だったからだ。しかし、これも片道切符。 発券カウンターでオーストラリアのビザが必要だと言われた。急いでオーストラリアの電子ビザを申請。料金も通 常より5USD分多く取られた。くそっ。

次に税関。三味線のケースは規定サイズをオーバーしているので機内には持ち込めない。だから、ケースだけを預け、三味線は分解して(三味線は棹が三つに 折りたためる)機内に持ち込むことにした。手荷物検査でX線を通す。そして別の場所に引っぱられた。この検査が面倒だった。おばちゃん係員が相手。しかも 要領悪いくせに真面目なキャラだ。三味線だけチェックすれば終わりなのに荷物を全部調べられた。くそっ。
仕方なく、チーフを呼んでもらい、「芸者知ってる?ジャパニーズ・ゲイシャ?彼女らが弾いてる楽器だよ」 と説明すると、チーフは頷いてあっさり通してくれた。

飛行機はタヒチ島を経由する。
本当はタヒチにストップオーバーできるか尋ねて、できるならタヒチに少し滞在したい考えていた。もちろん、よっぽどの出費でなければだ。でも、結局、出 発前の時間がなくなってしまった。タヒチ島はフレンチ・ポリネシア領。首都のパペートには夜中に着いた。乗り継ぎで待つこと2時間。外は暗く何も見えない が、南の島の空気を感じた。生暖かい湿った風。花の匂いがする。素通りするのは非常に残念だ。太陽を追いかけるように高速で西へ移動していた。一日が長 く、とりわけ夜が長く感じられる。それに、これほど長時間の空路移動は初めてだった。洋上から朝日を見た。オークランドに到着。時刻を修正。そういえば日 付変更線を跨いでいる。到着は10月13日6時30分。自分には10月12日が来ていない。変な感じだ。ニュージーランドは緯度的に日本と大差はない。こ れも世界一周だろう。西回りで一周して一日だけ若くなったということかな。入国も税関も問題はなし。この瞬間はいつも緊張する。

空港からオークランド市内に向かうバスを探す。しかし路線バスはないらしい。直接市内のホテルに向かうシャトルバスしかないようだ。しかも値段は 15NZD(1USD≠.42NZD)。高い。ニュージーランドは物価が安いはずじゃなかったのか。市内までは20kmくらいあるらしい。歩くことにし た。路線バスの停留所まで歩けばいい。

オークランドは雲はあったが晴れていた。風が強い。ロスアンゼルスと比べるとだいぶ涼しい。ニュージーランドは春なのだ。色とりどりの花が咲いている。 新緑が眩しい。なんとなく町の方向に歩く。2時間歩いてだんだん疲れてきた。まわりは牧場ばかりで住宅街が見えない。しばらくすると、後ろからクラクショ ンを鳴らされた。さっき道を尋ねた車だ。乗っていけと言う。助かった。このような親切は幸先がいい。ニュージーランドはきっといい国に違いない。
オークランドは大きな街だが緑も多い。坂がたくさんあり、海も見える。 気候は少し肌寒い。曇り勝ちな日が続き、雨も降った。いつも風が吹いていた。東 洋人が多かった。特に日本人と韓国人。みんなワーキングホリデーや留学で来ているようだ。特に都市部では人口の半分がアジア系じゃないかと思えるくらい外 国人が目立つ。他にもインド系やアラブ系、アフリカ系も多い。物価が高い。さすがにUSAほどではないが、外食は4NZD以上するので、とてもできない。 スーパーで買い物して自炊する。食パン、インスタント麺、米、毎日炭水化物だけ。栄養摂取より、まずカロリー摂取だった。肉や野菜が食べたい。

いろんな国を通過したが、行きたい場所は特になかった。訪れる国に目的はない。だけどニュージーランドには目的があった。20年前に父親は事故で亡く なった。その父親の遺灰の一部が南島にある氷河にある。そして数年前、叔父がそこへ訪れ、散骨してきたそうだ。父親の夢はニュージーランドに移住すること だったらしい。この話は自分が世界一周に出ると決めた後、叔父から教えてもらった。だから南島に行きたい。その氷河に行きたい。墓参りだ。

ツーリストインフォメーションで南島の行き方を調べる。交通費も高い。一番安いのは飛行機。しかし飛行機は使えない。バスも電車も高い。困った。結局 ヒッチハイクすることに決めた。コミュニケーションは大変だが、タダで面白い旅ができる。まず、電車で郊外まで出た。ハイウェイの入り口でスケッチブック を持ってヒッチハイクを始めた。最初は漠然と『SOUTH』と描いたが車は止まらない。具体的に地名を書いた方がいいようだ。
オークランドの郊外は、さっそく、「これぞニュージーランド」 といったような牧歌的な風景。順調に車を乗り継ぎ、ハミルトン、トコロアを経由、一日目の夕方にタウポに着いた。
タウポは北島のほぼ中央にある。火山活動でできた湖がある町。オークランドを昼過ぎに出てタウポまで来れた、これでだいたい感じが掴めた。途中、空手のコーチが運転する車や、女子高生だらけのスクールバスに拾われた。面白い話は聞けるが、やっぱり英語の会話は苦労する。

この日、同じヒッチハイカーに遭遇した。フランス人の二人組みの若者だった。ヒッピー風の格好で汚らしく、一人は地面に腰を下ろして休んでいて、一人が タバコを吸いながらヒッチハイクしている。行きたい先を表示した紙は持っていない。彼らと会ったとき、何か、「負けたくない」 と思うものがあった。自分 は立ち止まらずに歩く。体力の無駄に違いない。だけど、少しでも目的地の方向に進む。これが自分の旅の姿勢でもあるからだ。停車しやすいような路肩を選び つつ、車が通り過ぎるときの相手のジェスチャーに関わらず笑顔を返すようにしている。実際、そのフランス人の若者達より早く車を捕まえた。

拾ってくれた老婦人は自分を自宅に招いてくれた。そして言った。「彼らは二人だったし、何か乗せたいとは思わなかった。だけど、あなたはヒゲは生やして いるけれど、礼儀正しく、いい人のように見えたわ」すべての人がその老婦人のように考えているわけではない。しかし、ヒッチハイクする側にも努力や姿勢は 必要で、見る人はそれを見ているということだ。

翌日の一台目は競走馬を輸送するトラック。途中の町で馬を載せるために停まった。競走馬を間近で見たのは初めてだ。大きいくて凛々しい。しかし、馬はト ラックの荷台を嫌がり、なかなか乗ろうとしない。自分も手伝う。これが忍耐のいる作業らしい。大事な競走馬に怪我させてはいけない。
トラックの運ちゃんが業を煮やして木切れで突っつきだす。馬は暴れて、彼の脇腹を蹴り上げた。彼は肋骨を押さえて痛そうに転げていた。 (おいおい、怪 我してもいいけど、ちゃんと運転してくれよ~)その後は順調で、道端で待つこともなく、次々と車を捕まえられた。ときどき滅多に経験できないようなことに 出くわす。ヒッチハイクはそれが楽しい。

首都ウェリントンは北島の南に位置する。クック海峡に臨み、そこから南島と定期フェリーで結んでいる。山を背にして湾に面し、よく整備された近代的な町 できれいだった。夕方に到着したが、陽が沈むととたんに寒くなる。風は木枯らしのように冷たかった。夜中に南島へ行く便があるという。それに乗れば宿代の 節約にもなる。滅多にしない外食(フィッシュアンドチップス)を取り、フェリーターミナルの待合室で仮眠した。フェリーは夜中2時に出港した。外は何も見 えない。せっかくの船旅なのに残念だ。朝6時には南島のピクトンに入港。そこから目的地まではまだ遠い。

父親の遺骨が散骨された場所は、ワナカの西北西にあるダート氷河。タスマン海に面する西海岸を南下するルートを選んで進む。この日、三台目に捕まえたの は、狩猟が趣味のおっちゃんのトラック。マリファナをやりながら運転している。(大丈夫かよー事故るなよー)そのおっちゃんの友達の所に遊びに行った。そ この周囲は牧場と山と森だけ。友達は木を伐って運び出す仕事をしている。 「チェーンソーで木を伐ったことがあるかい?」そう言って、自分に木を一本伐ら せてくれた。高さは20m以上、胴も直径1m以上ある大木。倒れるとき、落雷のようなすごい音がした。快感だった。

その日の夕方、降ろされた場所はガソリンスタンドと民家が2~3軒あるだけの小さい集落だった。しかし、泊まれる宿は近くにない。雨も降っている。諦め て野宿しよう思ってヒッチハイクを続けていると、車が止まった。乗せてくれたのは牛3000頭を飼っている牧場主だった。「どこか泊まるような宿がないか な」と尋ねたら、「私の家に泊まればいい。それに、妻は明日、仕事でクイーンタウンに行くんだ」と言って、自宅に招待してくれた。そして、当然のように、 明日はワナカまで乗って行けばいいと誘ってくれた。こいつは運がいい。
翌朝、彼の奥さんはてっきりワナカまで乗せて行ってくれるのだと思っていた。しかし、グレイムースで降ろされてしまった。昨日は自分の聞き間違いだった のだろうか。まあいいや。気にせずヒッチハイクを続ける。ホキティカを過ぎて、この日、四台目に捕まえた車。この車が目的地ワナカまで一気に行ってしまっ た。しかも普通に所要する時間より2時間早い。それもそのはずだ。車のオーナーは同い年の兄ちゃんだったが、とてつもなくスピードを出す。彼の車は改造し たNISSANシルビア。直線にあるとメーターを振り切るまで加速する。200kmオーバー。山道も多く、コーナーでは度々ドリフトをする。時々、休憩す ると言っては駐車場で一回転して停まる。彼はマリファナをやっていた。しかもこの運転と速度。何回も降りたいと思ったが、彼はこれからクイーンズタウンに 行くと言う。偶然だが運が良いのか悪いのかわからない。

途中、フォックスグレイシャルやフランツジョセフなど、氷河が見える町を通ったが、ゆっくり景色を楽しむことはなかった。しかし、周囲を取り囲む景色は どんどん姿を変えていく。海にも山にも森にも壮大な自然があった。3000m級の南北に連なるサザンアルプス。その西側は雨や霧が多く、高い場所まで森林 になっている。アルプスを越えたときの眺望は最高だった。峠を越えると天気はがらりと変わる。雲ひとつない濃い青の空になった。残雪や氷河を冠した雄大な 山稜があり、谷間には真っ青な氷河湖が見える。スカイラインは鮮明に走り、荒涼とした岩の山肌には潅木が少しあるだけ。道は湖の岸辺に沿って伸び、新緑と 木漏れ日が目に眩しく、牧草地には白や黄の花が咲いている。これほどドライブが気持ちがいい道は今までなかったと思う。
南島の最終目的地、ワナカに到着。最初にツーリストインフォメーションに向かった。町や周辺の地図、トレッキングガイドをもらう。まずは親父の遺骨があ るダート氷河がどこにあるか知りたい。国立公園のビジターセンターはすでに閉まっていた。町から湖の奥の方にサザンアルプスの山並みが見えた。夕方は丘の 上の展望台で過ごす。そこには誰もいなくて、風が強く、かなり冷たかった。夕闇が迫り、星が現れる頃には街に灯りが点っていく。霧が山を隠し、湖にも降り てくる様子がわかる。ダート氷河についていろいろ調べてみた。どうやら、この時期、ルートにはまだ雪が残っているらしい。防寒具やアイゼンなど装備が必要 になる。それに、ワナカから氷河を経由してクイーンズタウンまでトレッキングすると、最低でも一週間は持ちたい。
いろいろ考えたが、今回は諦めることにした。そこは世界一周のついでに行けるような場所ではない。また次の機会にちゃんと準備してから来るべきだと思った。湖の岸で線香だけ焚いた。

適当にヒッチハイクしていると、クライストチャーチの近くまで行く車に拾われた。途中に見た景色は、これまた絶景だった。本当に南島は美しい。人も皆親 切だ。しかし世の中には変わった人がたくさんいる。鳥が偏愛している女性に拾われた。車内にヒヨコがいた。その人が住む家に連れてってもらった。まさに鳥 御殿。オウムからダチョウまであらゆる鳥がいた。ダチョウは渋い顔だったけど、怖かった。威嚇されっぱなしだった。クライストチャーチに遊びに行くという 若いカップルの車。そこでもマリファナを勧められた。そういえば、アラスカでヒッチハイクしていた時もマリファナを吸っている人によく出会った。いくら車 が少ない所だからと言っても、運転中は控えて欲しい。危ないだろ。

クライストチャーチのストリートで三味線を弾いた。少しだが旅費に足しになる。

オークランドからオーストラリアまでの飛行機は10月末。あまりゆっくりできない。北上する車を捕まえてオークランドまで戻る。南島から北島に戻るフェ リーは激しく揺れた。この日は天候が悪く、クック海峡は荒れていた。所要4時間の船は、倍近くの7時間かかった。乗客の半分以上が船の後方の通路に集ま り、ビニール袋片手に吐いていた。悲惨な光景だった。小さい子供が吐いている。(かわいそうに、この子は船旅が嫌いになるんだろうな)隣の親父は、「だか ら俺は船が嫌いなんだ」 そう呟いて舌打ちし、次の瞬間は吐いていた。あーあ。昼過ぎに北島に着いたが、自分も気分が悪くなっていたので、この日はウェリ ントンに泊まった。

ニュージーランドに到着した日、空港で会った現地のおじさんがいる。その彼、デニスは日本語を話し、自分が持っていたケースを見ただけで三味線と分かっ た。デニスはハミルトンに住んでいて、奥さんのチエコさんは日本人、ラジオのジョッキーをしている。「もしハミルトンに来る機会があったら電話してくれ」  と、電話番号をもらっていた。オークランドに戻る途中にハミルトンに寄ったので、早速、連絡してみる。翌日、ラジオに出演することになった。ラジオでは 三味線を弾いた。あとはトーク。 ラジオは生放送。緊張した。スタジオも初めてだ。上手く弾けたのか、質問にちゃんと答えていたのか、わからない。 夜は デニスとチエコさんの家に招かれて食事をした。日本式の焼肉で、久しぶりに肉を食べた。日本酒もいただいた。おいしかった。
デニスはギターを弾く。長渕剛が好きな面白いおじさんで、日本の曲もよく知っている。三味線とセッションした。楽しい夜だった。デニスは翌朝早く、仕事 で空港に行く。それに乗せてもらって、一緒にオークランドまで行くことにした。家にも泊めてもらい、気持ちだからと言って餞別までもらってしまった。本当 にお世話になりました。
ありがとうございました。

オークランドに戻ってきて数日間、ストリートで弾いた。2時間弾いて一日の生活費以上になる。雨の日が多く、寒かった。
10/31早朝にシドニーに飛んだ。空港に行くときもヒッチハイク。最後まで他人の世話になっていた。ニュージーランドは良かった。
シドニーはオークランドと違ってよく晴れていた。少し暑い。空港で安宿を調べ、市内中央にある1週間80AUD(1USD≠1.25AUD)の宿に泊ま ることにした。オーストラリアもニュージーランドと同じくヒッチハイクで移動しようと考えていた。しかし、ヒッチハイクはどうやら違法らしい。違反は罰金 という話も聞いた。困った。また、ストリートで弾くのにも、いちいち許可が必要らしい。警察が提示を求めてくる。面倒くさい。そして物価が高い。これには 驚いた。USAやカナダと同等か、もしくはそれより高いかもしれない。ツアーオフィスやインフォメーション、インターネットで情報を集めたが、移動も高 い。安いのは飛行機だが、陸路にこだわりがある。インドネシアやパプアニューギニア方面の海路も見つからない。八方塞がりだった。

とりあえずストリートパフォーマンスをするために許可を取ることにした。滞在費だけでも稼がなくては。市庁舎に行き、バスキングライセンスの申請をす る。すると、顔写真入りのカードができた。これでストリートで弾ける。最初の頃、シドニーは面白くなかった。新鮮に感じるものがない。みんな同じで、何も 感動がない。旅がマンネリ化してきたのだろうか。時間を浪費しているなと強く感じた。早く他の別の場所へ行きたかった。しかし、物価や移動は高いし、どこ に行くかも決まってない。動くのも億劫だった。ライセンスを取ってストリートに出た。その日から自分を取り巻く環境が変わった。
いろんな出会いがあるし、いろんな話を聞けるし、いろんな楽しいことがあるし、いろんなものが新しく見える。 あっという間に4週間が過ぎた。最後は疲 れていた。毎日、忙しかったが充実していた。楽しかった。 毎日、14時頃から18時頃まで中心街のストリートで弾いた。最初は平均20~30AUD。最後は平均40AUD。週末は80AUD以上稼いだ。収入は確 実にアップしていた。パフォーマーとして進歩しているのか。三味線が巧くなってきたのか。それらが収入に反映されていると思えば嬉しかった。
20時頃からは場所をオペラハウスの近くに移してグループセッション。ヒロくんとユージくん、二人のポイとジャンベと併せる。暗闇でポイやスティックに 炎を点して踊る。それに三味線とジャンベを重ねる。楽しくて気持ちいい最高の時間だった。しかもお金ももらえる。悪い箇所は話し合って改善し、実践した。 その度に、どんどん収入が増えていった。毎日応援してくれる仲間がいた。最高の時間を 作り出せる仲間がいた。シドニーをつまらなく感じていたのは自分自身だったのだろう。前に進むことを忘れていた。臆病になっていた。面倒になっていた。ス トリートに出て三味線を弾くこと。周囲の環境が変わったのではない。俺が周囲に影響して環境を変えたのだと思う。

いつまでもシドニーに居たいと思ったが、進まなければ旅はいつまでも終わらない。とりあえずダーウィンに行き、東南アジア方面の船を探そうと思った。鉄 道やバスは高かったが、なんとか安い路線を探し、それに乗った。途中、メルボルン、アデレード、アリススプリングスを経由してダーウィンへ。街は適当に散 歩する程度で、特に観光はしていない。エアーズロックにも行かなかった。
ダーウィンへついたが、目的の船が見つからない。客船はないので貨物船を探したが。一向に見つからない。困った。東チモールへ飛ぼう。残念だけど仕方ない。結局、ダーウィンからは飛行機だった。『飛行機は使わないで・・・』 自分で決めたルールはどんどん崩れていく。
まあいいか。

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