2. 住めば都なり – 45º aniversário

「序」

ブラジル移民は誰もが農業移住であった。

五年後には日本人移住百周年を迎える。日本人移住者が養国ブラジルで勤勉正直教 育熱心などにより日本人が(日系人)が社会で尊敬される「礎」となり、ブラジル発展の 「基」を作って下さった先人の苦労と闘いを後世に伝える為にも、ブラジル岩手県人会創 立四十五周年記念式典を迎えるにあたり、県人移住史も八十数年の足跡を残しており、先 人移住者への活躍に感謝し報いたいと思います。

著者は岩手県花巻市出身の移住者である、苫米地静子さんが女学校時代の親友である、 菊地禮さんに神戸出向以来四十年ぶりに交信を再開、以来二十五年間に渡り書き続けた手 紙集から元県庁職員の吉田恭子さんが両人から了解を得て編集構成され一九九五年に一冊 の本に纏められ〃地球二万キロブラジルだより〃「良い思い出は温めて」として日の目を 見発刊されました。 ここに苫米地静子様から、その農業移住編の特別寄稿を頂きました。

ブラジル岩手県人会
会長 千田 曠曉


 

住めば都なり

記 苫米地 静子

農業移住を振り返って

祖国の不況に流されて

昭和一桁年代の日本の世相は、街には失業者が溢れ、農村は冷害の為疲弊し、どこへ行っても不景気不景気の声ばかり、陰鬱な不穏な様相さえ見せた頃でした。  政府はその打開策の一つとしてブラジル向け移民奨励に力を注いだようです。

ブラジルは世界一のコーヒー産地、気候は温暖、辛抱して働けば五年もせぬうちに多額の富を得られ故郷に錦を飾れるし、或いは広大な土地も安価で求められ大地主ともなれる という、涎の垂れるような勧誘でした。

移住希望者は我も我もと増えて行きました、北海道及び東北地方の一部の凶作移民には支度金まで添えられたようでした。

我が家ではそれまで父は土木屋として一応の生活をして居りました、昔気質の世渡りの下手な父は何より運の拙い人だったようで、不況の波に抗しがたく、生活は不如意でした 。 その頃どうにか女学校を卒業させた我儘娘の前途への焦りもあり、父はブラジル渡航を決心しました。

四十八歳を家長とする親子三人の脆弱な家族構成で、渡伯後十年血の汗を流しての労苦はその時既に約束されていたようです。

故郷花巻を離れたのは昭和七年四月九日桜の蕾のまだ固い風の冷たい早春の日でした。

船上で思いを断ち切る

翌日神戸に着き、移民収容所を前にしてまず驚きました。 なだらかな山を背にした高台に堂々と立つ五階の建物、後方には三階建ての別館も続き、既に溢れんばかりの人達が 集まっておりました。

昭和初年頃は移民の全盛期、毎月二回の出航にそれぞれ千人以上の移民が送り出されて いたのです。

北は樺太南は沖縄全国津々浦々から集まった移住希望者達が乗船までの八日間をこの収容所で暮らすわけで、その間に身体検査や荷物検査、各種の予防注射が施され五階の講堂 では、ブラジルに就いての知識。船中上陸後の注意講座が設けられ、初歩ブラジル語の学校も開かれました。

四月一八日いよいよ乗船ときまり、その日の食事は赤飯にお頭つき、涙の出るほど嬉しかったことを記憶しております。

小雨煙る神戸の埠頭には既に各学校各団体からの大勢の見送り人がつめかけて居り、小旗を振って『行け行け同胞海越えて・・・・』の歌声も高らかにバンザイバンザイの歓声はあ たりを圧するばかり。

午後四時、物悲しいドラの音と共に五色のテープは波間に散って、千三百人の移民を乗せた一万トンの巨船リオデジャネイロ丸は静かに岸壁を離れました。

水上署の小型飛行機が高く低く船の上を飛び回り私達の前途幸あれと祈ってくれました。 今にして思えば二度と帰れぬだろう同胞への精一杯の餞けといたわりの姿と思われま す。 私達はテープの切れ端を握りしめ、日本の島影が見えなくなるまで頬を濡らして立ちつくし、祖国に別れを告げました。

それからの四十三日間は既に故郷への思いも断ち切れて、千三百人の道連れと共に前途の明るい光を見つめ乍ら、和気藹々と暮らしました。

狭い乍らも船中の生活はこの上なく活気に満ちたたのしいものでした。

朝は早くから船長の音頭でラジオ体操があり、三度の食事は揚げ膳据え膳、時々おいしいオヤツもあり、船員のサービスも上々で、映画も時々見られたし、船員達の演芸会、船 客のかくし芸大会、子供の運動会もあり、柔剣道の試合、囲碁将棋のそれもあり、簡単な船中新聞も毎日発行され、赤道祭、仮装大会なども見られ、同じ目的に向かう人達が渾然 とうちとけた四十三日間でした。

想像を絶するコロノ生活

いよいよブラジルに着き、リオ港でアマゾン行きの百余人、とアルゼンチン行きの若干名と別れ六月三日サントス港に着きました。

慌ただしい税関の荷物検査があって、奥地からの出迎え人に連れられてめいめいの配耕先へと向かいました。

途中鉄道の沿線で赤々とくすぶり燃える小山を見て何かと尋ねたら輸出量過剰のコーヒーの実を焼き捨てているのだと聞かされ、厭な予感を受けたことを思い出します。  汽車は翌朝リベロンプレット駅に着き、耕地からは数人の日本人がトラックで迎えに来ており、直ちに赤砂の道を数キロガタガタ揺られて目的の耕地に着きました。  そこはモジアナ線でも有数な大きな耕地で伯人(主にイタリア人)四十余家族、日本人(熊本県人)五家族、それに私達四家族が加わったわけでした。

胸をふくらませて着いたブラジルは予想外に荒涼とした薄汚い国でした、見渡す限りのコーヒー樹の海が大小の波状形をなして続き、その合間に点々と赤レンガのコロニアの列 が見られました。

すぐに名ばかりのレンガ家が与えられ、台の上に板を並べて寝床を作り、当座の農具は貸与され、次の日からコーヒーの実採集の仕事に加わりました。

それは全コローノが動員されコーヒー園の樹の列一本づつを片端から採り進んで行くのです。

朝五時チョットに起床の鐘が鳴り、六時の二度目の鐘でコロノ達は家を出てゾロゾロと仕事場へ向かいます。 ブラジルの六月は真冬で霜こそ下りないが凍えるような寒さ、し かも六時はまだ真暗、満天の星の冷たい瞬きを見乍ら、牛のねころんでいる牧場をよぎりカフェザルの道を幾曲がりもして監督の案内で現場に着いても、まだ手元が暗 くて仕事になりません、やっと薄明るくなって実を採りだしても、樹の枝の夜露の為に濡れそぼれふるえる程の冷たさです。

コーヒー園風景

実の採集には二通あって、実の若いうちは樹の下に大きな布二枚を敷きつめ枝を一本一本しごいて実を落とし、次々にその布を移動し実がたまった時ペネーラで葉をふきとばし 実を百十キロ入りのズック袋につめます。

実の大分黒く熟した頃は小枝で木から実を地面にたたき落とし熊手のようなラステーラで土と共にかき集めペネーラを使って実だけを分け、袋に詰め、カフェーザールの道端に 出して置くと牛車がそれを集めて回り一袋いくらという零細な金目が帳面に記載されるわけです。

新移民には監督の目も特にきびしく一粒取り残していても怒りつけやり直しさせられたものです。

馴れない労働しかも暗い内から暗いまでの仕事故疲れもひどく、夕方になれば口をきくのも億劫なほど辛くなり、やっと家に帰りまづい食事を無理に押し込み、体のよごれをザ ッと落とし倒れるように寝床に入っても体が痛くて眠れません。

いかに覚悟して来たブラジルとは言え、あまりの情けなさ不甲斐なさに声をしのんで泣いたものです。 コーヒーの実採りが終わって九月は新農年の始まりで、各家族の能力に 相当したコーヒーの本数が受け持たされ次の採集期までその除草が義務づけられます。

その頃はブラジルの雨期で毎日雨が降り、南国の太陽は焼けつくように照りつけ雑草は勢すごく伸びます。 汗だらけで懸命に除草して回るけど仕事下手な為草の伸びには到底追 いつかず、監督は毎日仕事場を回って小言を言い時には大勢のカマラーダを入れて除草させることもありました。

辛抱辛抱の新婚生活

新移民時代一番困ったのは毎日の食事でした、食料必需品はパトロンを通して購入しますが米はパラパラの陸稲米、おかずとしてはフェイジョン豆だけ、野菜は植えてもうまく 育たず肉類は一切無し畠の草を摘んでたべたり木の根まで掘って煮て見たり、遠方まで行って買う鶏卵が唯一の蛋白源、疲労と粗食が祟って父はしばしば病に伏しました。  やっと一年三ケ月の義務労働を終えほうぼうの態で次の耕地に移りました。

その頃偶然出逢った同船者と私は結婚しました。

そこはパトロンが日本人、前耕地での借金を肩替わりしてくれたし言葉の不自由は救われたし親切にして貰えるだろうと思ったのですが、日本人なれば却って気を遣うことが多 くて疲れたし、父は病気で一ケ月余も入院し、私はつわりで苦しんだり辛い思い出ばかりの一年でした。

募集に応じて次ぎに移ったのはノロエステ線の大きなファゼンダでパトロンはスイス人、たくさんの分耕地もあり大勢のコロノを抱え日本人も二十家族も入っていて心強く、モ ジアナ線の耕地と比べて時間も監督もゆるやかでした。

私達も仕事に馴れてきたせいか精出して働くのがたのしい位になっていました、が何分受け持ち畑が皆遠く、母が子供を背負って乳のませに通うのが大変でした。 ここでやっ とドラム缶を用意して待望の風呂が出来ました。

その頃の私達コロノは少しでもコーヒー樹を受け持ってその賃金をふやし採集期にはこれ又死物狂いに働いて俵数を上げることがたった一つの目的で、その為には休息もなく娯 楽もなく身をすりへらして働き一日も早く日本へ帰りたい、故郷の土を踏みたいとの思いだけ、日常の生活も貧しいうえにまだ倹してお金を残すことに務め、持って来た日本着は 皆手縫いの仕事着に換へ使用し余分な品は伯人に売り捌き、最低の衣食に甘んじ帰郷の日を夢見て働いたものでした。

粗食の上に炎天下の重労働、病気にならないのが不思議なもので、青雲の夢空しく異国の土と化した人の数は実に膨大なものと思われます。

新移民は一年の契約をして働き乍らも、もっと条件の良い所もっと収入のある所とうの目たかの目で捜し回って移り歩いたもので日曜も祭日もなく働くので伯人間には評判が悪 く、毛嫌いされていたようです。
人間らしい生活を可能にした綿の歩合作 私達はコロノ生活三農年を経て今度は綿の歩合作に入りました。

そこは英国人経営の大規模な農場で入植者も百家族を越え、日本人も三十家族余、私達にとって今までにない環境となり仕事にも時間にも何の束縛もなく自由に働くことが出来 ました。

子供も二人目が生まれ賑やかになったし作柄も上々でした、大豆を植えて味噌醤油を作り小豆を植えて甘いものを食べ、豚も鶏もたくさん飼って肉類も豊富に食べれたし石鹸も うまく作れました、野菜もいろいろ出来西瓜やメロンも食べ切れない程ゴロゴロなりました、さしづめ農業二年生に進級出来たようでそこで四年働き、初めて人間らしい生活が出 来ました。

次に移ったのは三年契約の借地農パトロンも日本人入植者も全部日本人で、先ず日本人会が創られ会館が建ち日伯両語の学校も出来演芸会や運動会も催され、時々巡回シネマも 見られたし渡伯以来初めて楽しみを味わいました。

ここで長男が生まれ作柄も良く我が家に喜びが訪れました、ところが入植二年目の七月父が亡くなりました、かりそめの風邪がこじれ肺炎を起こし手当もろくに届かぬままの急 死享年五八歳不遇のまま異郷に斃れた父の心を偲び私は地に伏して慟哭しました。

次に移ったのはそこから奥へ二十キロ「人里離れた」の言葉の通り原始林に囲まれた全くの山の中地主はエスパニア人で人柄の良さと借地代がベラ棒に安かったので不便を承知 で入りました。

山伐りは人夫を雇って伐らせましたが火をつけて畠にした後は仮住まいをし乍ら仕事の合間に家を建て井戸を堀り豚小屋鶏小屋作りは皆私達の手でやりました。

家の用材は畠の中の丸太ん棒で家の外囲いや中しきりは椰子の木を割って針金で並べ立て透き間風を防ぐ為には木の皮を張り付けました、八歳になった長女も真っ黒になって手 伝いました。

そこでは作柄も上等だったし何よりも地主のエスパニア人が『日本人は偉いもんだ』と信用し親身になって親切にしてくれました。

だが淋しいことはこの上なく道路はあったけれど地主の家とは二キロも離れており、その間に土着人の家が二三あるだけで昼も深閑として物言い一つ聞こえず、人も通らず、過 ぎるは風の音だけ、夜はけたたましい野鳥の叫びに夢破られたり、朝になれば家のぐるりに山犬や山猫の足跡が無数にあり、時にはオンサの大きな足跡に肝を冷やすこともありま した。

娘の縁談で永住へ

折しも世は戦争の為の不穏時代日本人には特に風当たりが強くいろいろの惨い噂が耳に入りました。

私達は侠気ある地主の庇護の下にひっそりと働き続けました。 当時は砂糖塩石油などは人数当ての配給制でしたが地主は惜し気もなく裾分けをしてくれたり、町の買い物は替 わってやってくれました、又時々馬で私達の安否を尋ねるなど限りない恩を受けたものでした。

その頃は子供は六人になっておりました(一男五女)が母が健在で次々に生まれた孫の世話はすべて母がしてくれましたので私も畠仕事に精出すことが出来ました。  そこの契約は三年でしたが地主の親切にほだされて次々に山を伐り家を建て井戸を掘 遂に十年住みついてしまいました。

子供達三人は父と一緒に働き、雇人を使うときはその弁当運びに下の子も手伝ってくれました。

夜ともなれば薄暗いランプの下で上の三人に日本の話を聞かせたりイロハを書かせ算数を教えたり居眠りが出るまで母子で頑張ったものでした。

そのうちこの山中暮らしも八九年頃から付近の山々がそちこち伐られ家も建ち一キロ地点にバスも通って便利になり数キロ離れた所に日本人植民地が出来たりで次第に賑やかに なりました。

そのうちに夢想もしなかった長女の縁談を聞くようになって、私達は愕然たる衝撃を受けました。

二十年に余る百姓暮らしのうち一坪の土地も持たなかったのは、いつかは故郷へ錦を飾ろうとの思いがあったればこそで、それが戦争の為に挫折状態に会い今度は娘の結婚によ って絶望となれば私達悲願の錦衣帰郷は一体何だったのか・・・・?

大きな物が心の中で音立てて崩れて行きました。

こうして渡伯二十年にして愚かにも日本帰りを断念して、この異国に住みつくことに心が決まりました。 そしてしきりに止める地主や知人を振り切ってツテを得てパラナ州に 移り当時発展途上期にあった当パライゾ・ド・ノルテ市に落ちつき、ささやかな食料雑貨店を開きました。

爾来四十八年馬鹿の一つ覚えよろしく飽きもせず同じ場所で同じ商売をやって来ました、六人の子供も皆結婚し孫は十九人曾孫は十八人玄孫二人と大変な眷族になりました。

母は四一年前にその幸薄き生涯をこの地に閉じ、夫も六年前に逝きました、店は息子が継ぎ、私は今息子夫婦に養なわれ極楽トンボとなって黄昏の薄くらがりの中を独り静かに 飛んで遊んでおります。 二〇〇三年六月十五日記す

所在地・連絡先 – Localização・Contato

住 所:
Rua Tomaz Gonzaga 95-M
Liberdade - São Paulo - SP - Brasil, CEP: 01506-020

Tel. / Fax.: +55 (011) 3207-2383

E-mail: iwate@iwate.org.br

岩手県人会館はサンパウロの中心地にあり、地下鉄リベルダーデ駅より徒歩5分。近くには日本食品店、レストラン、ホテル、大学、病院、また、日系人の中心であるブラジル日本文化福祉協会、サンパウロ日伯援護協会(総合診療所、病院、援護施設)、それ以外にも10余の県人会や旅行社、銀行、邦字新聞社などがあります。