【サンパウロ新聞】優勝は83杯食べた有山さん 岩手第8回わんこそば祭り

競技の様子。中央が優勝者の有山さん

競技の様子。中央が優勝者の有山さん

 岩手県人会(千田曠曉会長)主催の第8回わんこそば祭りが、5月25日午前11時からサンパウロ市リベルダーデ区の同会館で開催され、例年に引き続き今年も会場はほぼ満席のにぎわいとなった。同祭りのメーンイベントの「競技の部」では、有山ジョージ氏(42、2世)が3分で83杯を食べ優勝した。
 そばは食べ放題で、「ダシの取れるものは全部入れた」という千田会長特製のつゆや3種類のギョーザも評判が良く、80キロ用意されたそばはほぼ完売の盛況ぶりだった。
 「競技の部」では、無差別組と女性組に分かれて4人ずつが壇上に上り、3分間に何杯食べられるかを今年は計5グループで競い合った。
 第1グループに登場した昨年度優勝者の藤井尚仁本紙編集制作部員(37、神奈川)は、82杯を豪快に平らげ後続を寄せ付けない王座の貫録を見せつけた。しかし、第4グループの有山氏が前回王者を1杯上回る83杯を必死に流し込み、そのまま見事優勝。 
 有山氏は、「きつかったし、コツもなかったけど気持ちで食べ続けた。女友達が来ていたのでいいところを見せたかった」と、はにかんで優勝の喜びを語った。
 女性の部では三宅みのりさん(37、大阪)が男性にも引けを取らない77杯を食べて優勝。「お腹がすいていたし、そばもおいしかったのでたくさん食べちゃいました。友達も応援に来てくれていたので頑張れました」と余裕の笑顔を見せていた。
 競技中には県人会スタッフから「どんどんどんどん」と早食いを促す声が掛けられ、会場からは友人などからの声援も飛んでいた。
 家族でそばを食べに来ていた長谷川藍さん(29、大阪)は、「ダシが利いていてとてもおいしかった。競技の部では食べる人と給仕する人のペアで参加できるようにしたら記録も伸びて面白いのでは」と新たな可能性を提案した。
 千田会長は「食文化が一番県の特色を伝えやすく、『食べニケーション』の場として色んな人の交流の機会となれば。競技は記録ではなく楽しんでもらえることが一番だが、年2回の開催や新しい制度を求める意見なども今後参考にしていきたい」と述べた。

モザイク

 わんこそば大会で惜しくも優勝を逃した前回王者の本紙編集制作部員・藤井氏は大会を振り返り、「王者として負けられないプレッシャーと油断があった。
 自分の記録(大会記録の106杯)を超えて優勝したかったが、注ぎ手との相性もあるのでやり方などを考え直したほうがいいのでは」と悔しさをにじませながらも、「勝敗は抜きにして楽しかった」と感想を述べた。
 また、会場では競技の部に参加していない人にも何枚そばを食べたかを記入できる賞状が配られるなどの工夫もあり、会場に訪れた皆が楽しんでいる様子が印象的だった。
 本紙からも競技参加者、応援、スタッフ、友人などを合わせて約10人が参加し、大会を通して普段見ることができない新たな一面が知れるなど、結束力が一段と増したのではないかと実感する。次回にはまたどんなドラマが生まれるか、期待したい。

サンパウロ新聞 2014年6月4日付

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【サンパウロ新聞】ブラジルの未来を切り開く日系人経営者 菊地義治会長

援協会長は組織経営の名リーダー 宅配飲食業でも人柄反映、人気の店に
ハルミ・アリメントス社 菊地 義治 会長

ハルミ・アリメントス社 菊地 義治 会長 海外最大の日系人団体であるサンパウロ日伯援護協会(略称は援協、会員約1万3000人)の会長として活躍する菊地は、今年の3月24日に「サンパウロ名誉市民章」を受章した。会場となったホールは満席になり300人以上が参加して菊地のこの受章を祝った。ホール関係者によれば近来まれに見る盛況だったという。菊地の人柄がよく分かる話だ。
 また2012年3月26日には天皇陛下のお招きにより、皇居で天皇皇后両陛下と菊地及び菊地夫人のマリーザの4人だけでブラジル談議に花を咲かせたという、品性も備わっている。
 1940年に岩手県で生まれた菊地は、「少年期から実家の農作業より近所の子供たちの面倒を見るほうが性分に合っていた」というから、「世のため人のために尽くす」という今のボランティア活動のリーダー職が宿命づけられていたのかもしれない。
 「何事にも挑戦してくじけずに向かって行くという心が大切」ということを座右の銘にしている菊地は、7歳から12歳までの小学生時代には自宅から学校まで毎日6キロの道を徒歩で通い続けた。岩手県の冬は雪が深い時には馬車の後ろに乗って学校に行く日もあった。「自分の負けじ魂はこの時に鍛えられたように思う」と数々の困難に打ち勝ってきた自分の原点を見つめるようにこう語る菊地。こうして18歳まで一関市で育った。男2人、女4人の兄弟で次男として育った菊地は、11歳の時に母が亡くなり祖母の己代に育てられた。己代の父は村の村長を務めた立派な人だった。
 「戦後の厳しい日本の現状よりも人生の新天地を求めて新しい大地のブラジルで生きていこう」。こう決意した菊地がブラジル移民の話を切り出した時、祖母は「何もあんなに遠いブラジルまで行くことはないだろう」と一言いったきりだった。一方の父は「お前自身の人生だ、悔いのないように自分の人生を切り拓いて生きろ」と理解してくれた。こうして菊地は1959年に「あるぜんちな丸」で45日間かけてブラジルに移民した。移民船の中では「もう二度と祖国日本の土は踏めないだろうと思うと泣けて泣けて涙が止まらなかった」という純情一途な19歳の少年だった。
 この時の移民の肩書きは今の青年海外協力隊の前身である建設省(当時)所管の南米産業開発青年隊の一員だった。派遣移住先はサンパウロから1500キロ離れたパラナ州セーラ・ド・ラードで、原始林を斧で切り拓き、飛行場を造り、綿花の栽培地を開拓し、水田開拓地を造るなど、さまざまな土方作業に励んだ。仲間たちとともにこの過酷な労働に耐えて菊地も丸2年間頑張った。
 63年の22歳の時にサンパウロに移り、慣れない商売人の人生が始まった。青果商、家具商、衣類販売などあらゆる小売り商売に挑戦し続けてきた。
  そして宅配飲食業で本業となるチャイナ・イン・ボックスと出会った。現在の飯の種であり、今からちょうど20年前の話である。今チャイナ・イン・ボックス チェーンはブラジル全土に250店舗以上、サンパウロ市内に60店舗ある。菊地は94年にフランチャイズのメンバーとして会社を設立した、ハルミ・アリメ ントス社である。社長は娘の渡辺・菊地・サンドラ・ハルミで菊地は会長になっている。同店は「味と新鮮さ、注文を受けてから宅配するまでのスピード、誠実 でお客様を大切にする」。このサービス品質で顧客からの評価と支持を集めており、取り扱い20品目の中では焼きそばが人気のメニューになっている。ハル ミ・アリメントス社はチャイナ・イン・ボックスの全店舗の総合力評価で、過去5年間で1位が2回、毎年ベストテン入りしている超優良店になっている。菊地 は「今後もお客様のニーズに合わせていく」方針という。
 菊地自身は現在まで45年間にわたりボランティア活動に携わっているが、そのバックボーンとなる3カ条がある。
「自分への(精神的)価値と代償がない代わりに、どんな仕事にも挑戦し責任をもって可能性を見つけ出す努力は常に新しい発見がある」、「仏教の教養を学 ぶ」、「人に対する協力、人の嫌がる仕事、下積みの仕事、表に出ない仕事にも達成感と充実感がある」と無私と奉仕の精神に支えられた菊地の精神領域には、 自ら鍛えに鍛え上げ自分を磨き上げた、人徳が身に備わっている。
 特に菊地を評価したい点は、海外日系人最大規模の団体であるサン パウロ日伯援護協会会長としてこの組織をまとめ上げ、健全な財務体質に体質転換を図り、日系社会とブラジル社会、そして世のために必要とされる人と組織を 最大限に活性化させていることだ。この菊地の組織経営力と組織運営力は先の確かな信念と信条の3カ条に支えられた、名リーダーとしての指導力と統率力を 伴った人物であることもよく分かる。
 今菊地が日常全力で務めているサンパウロ日伯援護協会とは、移住者援護と日系社会及びブラジル社会への医療と福祉サービスを行う団体で、会員数約1万3000人を誇る海外最大規模の日系人団体で、雇用者数は2000人(内1500人が医師と看護婦)を超える。
  今や日系コロニアのシンボル的な団体で日系社会からだけではなく、ブラジル社会からも頼りになる援協として今後に対する期待と役割は一段と大きくなってい る。その多忙を極める援協会長とはどのような仕事かを聞くと、「日系社会とブラジル社会に必要とされる事業の推進、高齢化社会への介護支援の役割、特殊障 害者への社会的平等、日本人の特質(正直・勤勉・努力)をブラジル社会への対応と還元など多くの案件」がある。
 援協の今後の在り方については「ブラジルに移住してきた多くの人たちがこの国に移住して良かった、ブラジルが安住の地と安らぎのある環境としての支援をつくっていきたい」という。
  その菊地はサンパウロ日伯援護協会会長だけにとどまらず、さまざまなボランティアにも参加している。自閉症青空学級顧問、ブラジル地域リーダーふるさと創 生協会副会長、ブラジル岩手県人会名誉会長、リベルダーデ商工会評議員会副会長、など数多い。さらに日本国際協力財団の神内良一理事長、日本財団の笹川陽 平会長をはじめ、ブラジル日本商工会議所関係者からも「菊地さんの行動力を評価するとともに支援した事業に対してもきっちりと報告してくれる結果責任を 持っている」、と菊地に対する信頼と評価はお世辞抜きで高い。
 菊地は「ここまで多くの皆様にお世話になり周りの人たちに支えられてやってきた、健康が第一条件、苦しい時に情熱を燃やした、貧乏こそエネルギーで逆境に耐えることも学んだ」と陰徳精神も身に着けた。
 ブラジルで日系人コロニアを誇りと思う時はどのような時か、を聞いたところ「日本の日本人よりも個性的で日本の精神文化を継承している、日本人の良さとブラジルのサラダ文化など民族文化が入り交じる中で競合して鍛え上げた国際感覚を持った人が多い」。
  同時に日本へのメッセージとして菊地は「ブラジルには150万人という海外最大の日系人が住んでいる大国です。そこでまず文化交流、次にブラジルは南米市 場の中心で経済交流の拡大活発化、そしてブラジルは平和的な多民族国家で日本はより積極的に人的交流に務めてほしい、と願っています」と結んだ。(敬称 略、筆者=カンノエージェンシー代表・菅野英明)

サンパウロ新聞 2014年5月13日付

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