大震災から8年 提供 ニッケイ新聞

震災から8年、岩手県山田町=苦境乗り越え、取り戻した日常=(上)=忘れられない津波の悲劇

2019131 New! ニッケイ新聞

教え子が亡くなった海の方を眺めるトミさん

 【岩手県山田町発】2011年3月11日に発生し、東北に大きな傷跡を残した東日本大震災。震災発生から2か月後に本紙記者が、ブラジル岩手県人会の賛助会員が住む岩手県山田町を訪れ、その惨劇を報じた。それから約8年――昨年12月に再び山田町に足を運び、人々の生活や町の変化を取材すると、震災を乗り越え強く生きようとする人々の姿が見えてきた。

 山田町役場の5階から、町の中心地が見渡せる。かつては住宅と商店が建ち並んでいたが、山田湾から押し寄せた津波に飲み込まれ、壊滅的な被害を受けた。現在は、再建された住宅がまばらに建ち、空いた土地は駐車場として利用されるか、そのまま更地になっている。
 ブラジル岩手県人会の賛助会員の松本トミさん(90)が、窓から眼下の景色をぼうっと眺めている。声をかけると、「町民のほとんどが自分の親族か知り合いを亡くしています。あれから8年も経つなんて。まるで昨日ことのようです」と静かに話した。
 山田町は人口約1万5千人で、2つの湾を擁す国内有数の漁場だ。震災に伴う津波と火事で家屋の45%が全壊し、死者と行方不明者は800人を超えた。
 

岩手県盛岡市で生まれ育ったトミさんは、二十歳のときに体育教員として赴任し、以来70年この町に住む。弟の藤村光夫さんが移住してブラジル岩手県人会の相談役となった関係で、これまでに7回も来伯した。
 階段の上り下りを苦とせず、目も耳も衰えていないため、とても90歳には見えない。還暦までは毎日欠かさずランニングをしていて、今はよく散歩に出かけるそうだ。
 大地震が襲ったとき、トミさんは自宅にいた。既に県内の他の地域に津波が到達していることをニュースで知り、娘夫婦と一緒に車で高台を目指した。車内から後ろを振り返ると、瓦礫を乗せた津波が家々を飲み込むのが見えた。

震災後2月後の山田町(2011年5月撮影)

 避難先で2晩を過ごしてから戻ると、瓦礫は自宅の前で止まっていた。そこより海に近い建物は、元の場所から流されて無くなっていた。自動車が何台も積み重なった瓦礫は2階の高さまで達していて、その中に逃げ遅れた人の遺体があった。
 トミさんは40年間に渡って、山田町の小中学生を教え続けた。「家庭訪問で町中を歩きました。生徒は私に長居してもらいたくて、訪問の順番を最後にしてくれって言うんです」と思い出す。教員時代の話をするトミさんは何とも嬉しそうだ。
 それだけに、震災で何人もの教え子が亡くなったことは、今でもトミさんの胸を締めつける。漁師になった教え子のひとりは、「津波が来る」と聞いて港に停めてある船を見に行ったきり、帰らぬ人となった。
 トミさんは「私より早く逝ってしまうなんて考えもしなかった。やっぱり『津波てんでんこ』です」と言い、涙をぬぐった。
 「津波てんでんこ」とは山田町を擁する三陸地方で昔からある教えで、「津波が来たら、家財も肉親もかまわず、各自てんでんばらばらに高台へ逃げろ」と言う意味だ。東日本大震災後、防災教育の標語として全国的な注目を集めた。(つづく、山縣陸人通信員)

  震災から8年、岩手県山田町=苦境乗り越え、取り戻した日常=(下)=生きるために働かなくては

現在の山田町

 町の案内を快く引き受けてくれたトミさんは、娘の智子(さとこ)さん(67)が営む文房具屋に連れて行ってくれた。震災時、店舗は震災により引き起こされた火災で全焼し、在庫商品もすべて灰と化した。
 町役場が備品を必要としていたため、自身も被災していたにもかかわらず、業者から仕入れて販売した。そうやって地道に仕事を続けて再建したのが今の店舗だ。
 智子さんは「商品もすべて燃えてしまって、かえって良かったのかもしれません。綺麗にしたり、売り物になるか選別したり、そういう手間がありますから」と話す。
 記者が「店をたたもうとは思いませんでしたか」と問うと、「そういう考えはなかったです。生きていくために働かなくてはいけない。ただそれでだけでした」と話した。
 老舗の寿司屋「魚河岸」も津波で店舗が流されたが、4年前に営業を再開した。震災後、一家で盛岡市に移り住み、3年間、貸店舗で寿司屋を続けた。その間に新店舗再建のための資金繰りや建築許可の手続きを進めた。
 三代目となる店主は「山田が好きだから戻ってきました。これからが頑張りどころです」と話す。山田町は震災後、町外への転居者が増えたことで人口が約2割も減った。
 また復興工事のピークを過ぎ、全国から集まった現場作業員はほとんどが町から去り、かつての賑わいはもうない。店主は「苦しいのは確か。でも店をできるのはありがたいことです」と言って、カウンターに並んで立つ妻と顔を見合わせて笑った。

町議会議員になった菊地さん

 山田町に住むもう一人の賛助会員、菊地光明さん(66)は震災時、町役場の職員だったが、退職して現在は町議会議員になっている。菊地さんは「復興は進んでいるが、まだ終わってはいない」と話す。
 町議会では今でも、復興工事など震災に関することが議題の半分を占めている。また、震災前は特産の牡蠣やホタテを求めて多くの観光客が訪れていたが、その数が減り地域経済に影響を与えている。
 一方、ブラジル岩手県人会やパラグアイの日系社会からの支援は確かに届いていた。県人会から千田曠曉会長をはじめとする関係者が訪れ、激励した。
 パラグアイからは大豆100トンが送られ、それを豆腐にして町内に配った。配送業者を経営する町議会議員の坂本正(ただし)さん(71)が運送し、仮設住宅に届けたところ大変喜ばれたという。
 菊地さんは「昨年の岩手県人会創立60周年に参加しました。震災をきっかけに絆が深まり、あんなに離れているのに近く感じます」と感慨深げに話した。
 今年3月で震災から8年を迎える。この間に人々はなんとか生活を立て直し、犠牲者を弔いながら、今も津波をもたらした海の近くで暮らしている。
 文房具屋の智子さんは「県内でも沿岸部の人はおおらかと言われています。その分、逆境にくじけないのよね」笑っていた。苦難を乗り越え日常を取り戻した今だから見せる、清々しい笑顔だった。(終わり、山縣陸人通信員)